貴方からうつる熱
光秀様の妻になり、ひと月が経った頃。
天下人となり多忙を極めていた光秀様は、体調を崩された。
軽い風邪との事で心配は要らないと言われたけれど、大事を取って今日は早目に執務を切り上げる事となった。
「…ふう」
私も早目に眠ろう、と横になったものの、一向に眠気は訪れない。
毎晩欠かさず側に居て下さった光秀様が居ない…それが酷く寂しくて。
嫁いでからと云うもの、どんなに夜遅くまで御仕事があっても必ず会いに来て下さったから。
「光秀様……」
何時からこんなに依存してしまったのだろう。
たった一日離れただけ、同じ屋敷の中に居ると云うのに、それでも寂しい。
私も何時か母親になったら、こんなに甘えてばかりでは居られないと云うのに。
「…で、でもまだ先の事ですよね」
光秀様との子供…などと想像してしまった自分が恥ずかしくなり、誰も居ないのに言い訳めいた独り言を呟く。
そしてまた、この場に光秀様が居らしたら何と仰ったか…と考えてしまう。
看病すると云う申し出も、奥方がそんな事はいけませんと侍女に止められてしまった。
もうただの一国の姫では無く天下人の妻なのだから、立場が違うのは解る。
それでも夫の看病をしたいと思うのは誰でも一緒では無いだろうか。
「私はかつて、あんなに優しく看病して頂いたのだし…」
心配な気持ちと、御顔を見たい気持ち。
寝顔を見るだけでも、安心して眠れる気がした。
「御邪魔にならないように…一目見て戻るだけなら」
耐え切れなくなった私は、静かに起き上がり廊下へと滑り出た。
そっと室内の様子を窺うと、もう侍女も下がらせ眠ってしまわれたのか薄暗い。
月の明かりだけが差し込むその中へ、そうっと足を踏み入れる。
光秀様はとても鋭い御方だから、起こさないようにしなければ。
「………」
息を詰めて傍らに座り込む。
端正な寝顔には、疲労の色が滲んで居た。
――お疲れなのですね。
心中で呟き、そっと額に手を当てる。
微熱、それほど高くない。これならばすぐに御元気になるだろう。
ほっとして、もう戻ろうと立ち上がった。
長居して起こしてしまっては大変だし、万一侍女に見付かっては女子から夫の室に行くなどはしたないと思われてしまう。
「…え?」
ところが、歩き出そうとした途端、つんのめってしまった。
着物の裾が引っ掛かったのかと振り返ると。
「それだけで、行ってしまうのか?」
「み、光秀様…!」
私の裾を引いて居たのは、光秀様の左手だった。
横になったまま、じっとこちらを見詰めていらっしゃる。
「す、すみません、起こしてしまいましたか?もう戻りますから、ゆっくりお休み下さい」
「駄目だ」
慌てて立ち去ろうとするけれど、光秀様は掴んだ手を離して下さらない。
「病気の時は…手を握って居て欲しいもの、だろう?」
「それは……」
私がかつて御願いした事。
御気持ちは解るけれど、でも。
「光秀様、このような所を誰かに見られては困ります…」
「私の室に居る事か?それならば問題無い。看病だと言えば良い」
「看病はいけないと、侍女に止められてしまいました」
「大丈夫だ、それは私の指示だから。気が変わった事にしておこう。実際、もう気が変わった」
「……え?」
看病をするなと仰ったのは光秀様だった?
でも今はもう気が変わっておられて…どういう事なのか、さっぱり解らない。
「君にうつしてはいけないと思って居たのだが…」
困惑する私を側に座らせ、光秀様は甘えるように私の膝に頭を乗せた。
「やはり離れて居るのは落ち着かない。中々眠れずに困って居た所だ、折角来てくれた君を離したくはない」
「も、もしかして最初から起きていらしたのですか…?」
「ああ。君に会いたいと思って居たから、夢でも見て居るのかと思ったが。その手に触れられて解った」
そっと指先が絡められる。
武人とは思えないほど、細く長く綺麗な指先。
「この温もりは夢では得られぬだろう。確かな、君の体温だ」
そう言って、本当に安心したように微笑まれるから、とても嬉しくなってしまった。
光秀様も同じように寂しく感じて居て下さったなんて。
「光秀様、私ならうつっても構いませんから、これからは看病させて下さい」
同じ気持ちなら、光秀様から教えて頂きたい。
そうしたら私は我慢せずに御側に居る事が出来る。
どうしても御邪魔になるのではないかと気にしてしまうから、教えて頂けたら何時だって御側に飛んで行くのに。
「いや…そうもいかぬな。君は既に私の妻だ」
「…やはり、立場が変わってしまったからですか?」
光秀様が天下を取られた事は良かったと思うけれど、それによって関係が変わってしまうのは寂しいもの。
俯く私の頬を撫で、光秀様はくすりと笑って頷いた。
「ああ、そうだな。妻になった以上、前と同じにはいかぬだろう?いつ子が宿るか解らぬ」
「えっ……」
「大事な時に体調を崩させる訳にはいかない、と思ってな」
「そ、そんな…子供、なんて。御気が早いです……」
先程、考えた事。
まさかこれも同じ事を考えていらっしゃるとは思わなくて、恥ずかしさから狼狽てしまう。
「早いと云う事は無いだろう。子供は授かりものだ、何時宿ってもおかしくない」
「で、ですが……」
そうはっきり言われると何だか頬が熱くなる。
口籠る私に光秀様はまた笑って、ゆっくりと半身を起した。
「だが…確かに今は早いかも知れぬな」
肩と耳元にそっと添えられる掌。
反射的に目を閉じると、唇に柔らかな温もりが降りた。
「…君にはまだ、私だけのでいて欲しい」
名残惜し気に唇を離して、それでも鼻のつく距離で、囁くように紡がれた言葉。
「み、光秀様っ……」
その言葉に、今度こそ私の頬は、熱いなんてものでは済まなかった。
夜闇のお陰で真っ赤になっているのは気付かれないだろうけれど、未だ頬に触れて居る掌には伝わってしまった筈。
「おや、もう私の熱がうつってしまったかな?」
「………はい。しかもただうつっただけではありません」
からかわれているのが悔しいから、私からも一つお返し。
「光秀様の微熱よりも、もっと重症な高熱になってしまいました」
風邪をひいていらっしゃる光秀様の掌より、ずっとずっと火照ってしまった私の頬。
明日には、光秀様の熱は下がる。
それでも私の熱は、きっと明日も上げられてしまうだろう。
光秀様の御言葉は何時でも私を甘く翻弄する。
「そうか、それはいけない」
ちっともいけないとは思っていない口調で笑みを深めて。
「おいで。私が看病してあげよう」
ぎゅ、と抱き寄せられればほら、また、上がる熱。
けれどその、苦しくなる程の熱でさえ好きな私は。
「……はい、光秀様」
全く逆らう気もせずに、隣で眠る事を選んでしまう。
御側に居られる。
それが嬉しくて幸せで、本当に風邪がうつるかも知れない事なんてどうでも良いと思ってしまうから。
ああ、もしかしたらこれが一番重篤な症状なのではないかしら?
(貴方依存症、病名はきっとそれね)
了
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