血流夢想




赤く流れる血を見る度に、何故か君の笑顔を思う。


『正成様』


屈託無く笑って手を差し伸べてくれた君を思っては…、

「――任務、完了」

狂気の沙汰と言える微笑を浮かべて刃を引き抜く俺は、きっともう人間じゃ無いんだろう。



「光秀様」
「…半蔵か。どうだった」
「滞りなく。誰の目にも触れず、始末致しました」
「そうか」

対峙する貴人は満足気な笑みを浮かべる。
俺には解らない。人の命を奪うと云う事は、そんなに喜ばしい事なのか。
それでも逆らう気がしないのは彼の持つ絶対的な支配力の成せる業か、若しくは己の弱さ故か。

「良くやった。暫し休め」
「…は」

恭しく跪拝する胸の内は複雑な葛藤に満ちて居る。
彼の命は自身の矜持を捨てて迄従うべき事なのだろうか?
俺は忍だ。だから仕方が無い事なのかも知れない。
何より大切な君と離れてまで選んだ道がこの隠密の仕事なのだから、誇りを持ってやるべき事なのだろう。
一般的に見てどれだけ情けない事であろうと、恥晒しな事であろうとそれが忍の務め。
寧ろ俺達を汚らわしいと批判する人々には、やってみろと言ってみたい。
自身の心身を切り売りするこの仕事がどれだけの苦痛に蝕まれるものであるか、経験してから言えば良い。
平和な家庭に生まれ育って何の苦労も無く高貴に生きる…出来るものなら俺達だってそうしたいのが本音だ。
それが出来ない環境に在るから、悪事に手を染める。
それは言い訳としての逃げの結果向かった環境では無く、なるべき道筋を辿っての命運だ。
俺が彼に逆らえない理由は其処にあるのかも知れない。
彼もまた、汚れ役を買うべくして定められた悪の支配者を演じるしか無い人だから。

「…疲れた、な」

自分の家に帰る。一番安心出来る筈の場所で、酷い疲労感を拭えない。
此処が自分の家だと思えない程の疎外感は何処から来るのだろう。
優しさが無いから?温もりがないから?隣に居てくれる人が居ないから?
それは甘えと言えばそうなのかも知れない。
この乱世に皆が皆満たされて生きて居る訳では無いから、誰しも耐える部分があるのは解って居る。
こうして隠密として確固たる立場を築き安定した収入を得られる状況にあるのは、ともすれば迚も幸せな事なのだろう。
解っては居る。農民やそれ以下の民がどれだけ苦しい暮らしを強いられて居るかなど。
だから決して自分が不幸だなどとは思って居ない。
充分に満たされた環境にある筈なのだ。
解って居る、所詮は半端者なのだと。支配者にもなれず農民まで落ちる事も出来無い。
よく解って居る、平和な環境にある人々が忍を蔑む事など甘んじて受け入れるべき環境である事は。
けれど理解する思考と感情は別物らしく、幾ら格好付けて斜に構えた態度を取ってみたところで心は楽にならない。
寧ろ無理をする分だけ余計に辛くなって抑え込んだ衝動の遣り場を見失う。
忍をただ物のように使い捨てる権力へ対しての遣り切れない不満や、何も知らず羨ましがる平民へ対しての諦めに似た憤りや、一方的に批判するだけの富裕層へ対しての殺意に近い嫌悪感がもう、
爆発しそうな所まで溜まって居るのに。
そうやって堪えて堪えて毎日を過ごすうちに、このちっぽけな頭はそろそろ限界を超えたらしい。
理不尽を誤魔化す為に必要な言い訳ももう思い付かなくなって来て、ただ君の笑顔だけが唯一の救い、だと思う。

『正成様は、本当はとても優しい方だから』

もしかするとその君の笑顔こそが俺を苦しめているものなのかも知れないけれど。
二度と触れる事の叶わない幻は、ただ美しく俺を翻弄するばかりで。
君と離れて暫くの頃は、確かにそれは暗闇に差す一条の光として俺を支えてくれて居た。
けれどそれも歳月を経てすっかり歪んでしまったのだろう。
俺の中の穢れが君の輝きよりも強くなってしまったから。
この蟠った感情を吐き出す為には行き場の無い一人遊びしかもう残って居ないんだ。

「…ごめんね、ちゃん」

返り血の染み付いた身体を洗いもせずに蹲る。
あれは誰が言っていただろうか、男は血や骨、死を連想させるものを見ると興奮すると。
種の保存としての本能からそういう衝動に駆られる仕組みなのだと、聞いた事があるけれど。
俺の場合は違うと思う。いや、きっと多くの忍や戦人が違うと思う。
皆ただ…人を殺めるより深い狂気に浸りたいだけだ。
血で血を洗い、闇から闇へ葬られる忍の世界に於いて正気は苦痛にしかならない。
決して手に入らない幸せの幻影を見せる君の笑顔は、手放さなければならないものだ。

「でも俺はちゃんの事を忘れるなんて出来ない。想い出を捨てたくも無い、だから」

美しい君を汚す事で均衡を図るしか、方法が無い。

「ごめん、ね…」

君を滅茶苦茶に汚して、この溜まった不満を全て流してしまわないと生きて行けない。
息をする事さえ苦しくて辛くてどうしようもないからこうするしかない。
一握りの正気は心の病に蝕まれて、もう夢で気を紛らわす以外に何も残って居ないから。

滑らせた指先に身体中の熱が集中する。
ああ、馬鹿馬鹿しい。
頭の何処かでは、自身の下卑た欲望に対する冷静な批判が嗤って居る。
それでも一度動き出した掌は止まらずに、虚しさだけの待つ執着へと向かって加速して行く。

ちゃん…、好き、だよ」

意味の無い言葉を聯ねて好意の押し売り、それは行為の正当化を計る男の常套句。
現実には目の前に居もしない君なのに言い訳を重ねてそれでも決して震える手を止めようとはしないこの道化を、君も嗤えば良い。
ああだけど君の綺麗な笑顔は段々嫌がって泣き出して、傷付いてズタズタになる。
その合間に浮かんでは消える二人で紡いだ儚い喜びの記憶。
願って居た、あの頃は、それが永遠である事をどれだけ願って居たか解らない。
そう今だって本当は信じて居たい、どれだけ月日が経っても君との愛は偽り無く美しいものだったと思って居たい。
でも願う為に必要な両手は今片方が欲に塗れてもう片方は血に塗れて使い物にならなくて、
心の中だけで祈ってみたってそんなものはいずれ吐き出すこの欲望と同じで空中に放り投げて消えてしまうだけのものに過ぎない。
だってそう、幾ら温めて大切にしても叶う筈が無いものだから。
全ての想い出をどれだけ心から愛しく想ってももうどうしようもない、俺は忍で君は姫で変わらない運命は何も変わらないまま。

「大好き、だよ…」

こんな言葉を幾ら言ったところで何も変わりはしないんだ、どうせ君に届く事は無いし万一届いたとして結局何も変わらないのだから結果論として意味は無い。

『いつか、一緒に旅をしよう。自由になって、二人で何処までも一緒に行こう』
『はい、正成様。いつか、必ず…』
『だから少し待っててね。すぐに助けてあげるから』

束の間過る、希望に溢れて居た頃の情景。
一体何処に行けばもう一度あんなにも楽しいだけの時間を取り戻せるのだろう。
誰に訊いてもきっと知らない事だと思う、でも知りたい、ただもう一度幸せな夢を見る方法が。

『正成様、』

今俺の瞼に浮かぶ君は泣いているから俺の見る夢は迚も幸せなものになんかはならなくて、それでも純粋な君を無理矢理汚す背徳感に益々欲が昂って訳が解らない。

『君は籠の鳥』

籠の鳥は俺の方だ、君はあの時俺を想った所為で捕えられてしまったけれど、今は自由の身で。
俺は未だに君を想う心に囚われて絶望の檻の中で一人必死に物掻いて居る。

『いいえ…、正成様』

君の悲痛な声が蘇って胸に刺さる、でも限界が近い俺の頭では、それをちゃんと理解する余裕が無くて、

『光秀様に…忍と云う枷に捕えられて居るのは、貴方の方です』

そんな事、俺は、知らない。君の虜になって居る事以外の自覚なんて無いからそれ以外の自覚なんて無いから解らないからどうか何も言わないで居て。
解らないから、だから、ただ今は儚いだけの美しい愛より白く濁って噎せ返る程に香る退廃した劣情に落ちたい。
もうどうしたって清い想い出の儘には行かない所まで来てしまったならいっそ劇しく堕落の道へ進んで燃え尽きたい、最初の罪が出会いだったと云うならこのまま最期の罪で踊らせて欲しい。
ねえこれが虚しい行為だって事くらい嫌って程解ってるんだ、埋め合わせの相手すら居ない身じゃ本当に虚しくて情けないよ。
君を愛して居るから他の人を抱けないなんてまるで童貞みたいに巫山戯た考えを捨てられなくて無意味に苦しむなんて馬鹿気てる。
でも思うんだけどきっと男って不器用な生き物は時に女より余程女々しいんじゃないかな。
君は俺を愛して居ると言って居たけれど、国の為に婿養子が決まればそれを受け入れて世継ぎ云々の役目を果たすんだろう。
俺だけが今も君に縛られて想い出しか抱けないなんて本当に馬鹿気てる、嗚呼下らないでももう解らないどうでも良い

ちゃん、お願いだから……」

強く噛んだ唇から鮮血が零れる、その鉄臭さに吐き気が沸くけれど同じだけ興奮も高まって吐き出す時が近いから
こんな時まで辛い現実なんて真っ平なんだ、君の泣いてる顔だなんて見たくないからだけど助けに行きたくても何も出来ないからせめてこんな俺に情けを掛けて
どうかこの腐り切った夢の中だけでも良いから甘い吐息で乱れて、罪の意識を抱く暇も無く果てさせて。
















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