劣情腐敗



私にはよく衆道の噂が立つ。
嫌味を込めた武将達の噂であったり、単なる好奇心による侍女達の噂であったり。

「…高坂、どうする」

姫と共に過ごして居た間は影を潜めて居たそれらの噂が、近頃また喧しくなっていた。

「そうですね…」

私だけの問題ならばまだ良い。
御館様の見識迄もが疑われる事だけは、何より赦せない事。

「正直こんなもの、俺なら何があっても参加したくない。お前も勿論そうだろう。だが、これは…」
「国の大事の関わる事と承知して居ります。高坂なら平気ですので、御心配無く」
「だがお前…、あの姫の事をまだ」
「御館様。高坂も男です、据え膳を食わぬ程廃れては居りませんよ」

北条からの招待状。
宴会と云う名を借りたただの乱交の場に、私はどうしても出向かなければならない。

甲斐の国は豊かな越後とは違い金山も水田も不足している。
北条からの商業支援が無ければ、とても長年上杉と争い続ける事など敵わなかっただろう。そういう意味で感謝はしている。
だが嘗て頂点まで権力を極めて居た北条は未だにその成金思考を捨てられず、下衆な遊びを好む。その点に於いては迚も同意など出来無い。
今まではこういった招待状が来ても適当な好き者を遣っておいた。
それが、今回は。
わざわざ私が来るようにとあちらからの指名で届けられた、忌々しい文。
蛍侍と揶揄されたくなければ男らしさを見せるように、本当に衆道ならば儂が相手をしようかと茶化した一言まで添えて。
こうなれば出向かない訳にはいかない。
私自身の想いなどよりも、御館様の為に、ただ国の威信と富を守る為だけに、私は北条領へと出発した。
道中の心境は…あまり覚えていない。
絶望と云う程重いものでも無いが、毎晩悪夢に魘されながらの旅だった事だけは理解して居る。


「これはこれは。高坂殿が御越し下さるとは、招待した身でありながらも意外ですな。女は駄目な質かと思って居りましたぞ」
「御冗談を。まさか、下卑た噂を本気にされて居りましたか?」
「いえ、そのような意味では…まあ、とにかく楽しんで頂ければ何よりです」

目だけは笑わずに微笑んで言うと、北条氏は慌てたように視線を逸らした。
居並ぶ客人達を見渡せば、誰も彼も好色そうな鼻の下の延び切った中年親父ばかりだ。
それに混ざって、勝手も解らず派遣されたのだろう若い臣がちらほら居心地悪そうに座って居る。
私はそのどちらでも無い…実にこの空間にはそぐわない人物だろう。
きっと雰囲気からして浮いてしまって居る上に、碌でも無い噂が立っていたのだ。
好奇の視線が遠慮無く、嫌と云う程に浴びせられる。
その全てに一々睨みを効かす程子供でも無い私はただこのまま、背後の少し隅の黄ばんだ壁紙にでも同化してしまいたい心持でじっと耐えるしか無い。
まずは代表格の者の挨拶があって、それから酒が運ばれて、その後は御自由に。その決まり切った手順を踏む迄の間を、ただじっと。


高級遊郭でも大半は薄い屏風しか仕切りの無い造り、この安い宴会にそれ以上の設備がある訳も無く。
薄っぺらな隔てだけの彼方此方で愛を利用しただけの支配劇が行われていると思うと本当に気持ち悪い。
空気の悪いこの場所に満ちる荒い呼吸は吐き気がする程汚らわしい、今私の相手と決められたこの女も、同じ人間とは思えない程に気持ちが悪い。
それでいて無理にでも身体を繋いでしまえば跳ねる鼓動が無闇に動いて動いて困る、この苛立ちを向ける先は一体何処だ?

「高坂様は女嫌いと伺って居りましたわ」
「…噂は噂に過ぎませんから」
「そのようですわね。だってこんなに、お上手ですもの」

背中に回された女の指が軽く爪を立てる。
触れ合う柔肌の温もり、周りは皆がその女の香りに群がっては本能を丸出しにして没頭している。
所詮そんな生き物か。
嘲笑う心とは裏腹に、不意に締め付けられた蕩ける感触に身体は敏感に反応を示す。

「……っ」
「ふふ、素敵。ねえ、もっと…」

強請る言葉と表情に幾ら中心の熱が疼いても心までは明け渡したく無いから。
それを喜び貪る煩悩そのものになど成り下がりたく無い。
出来るなら今すぐその白粉に塗れた首筋に思い切り噛み付いてやりたい程に苛立って居るのに、私の牙は北条の権力に折られて使い物にならない。
飼い犬は与えられた餌を貪るしか出来る事など無いのか。

「…………」

只管無言で動き続ける、籠った空気に蒸れた額には汗が伝う。それが目に染みて生理的な涙が滲む。
そうきっと、生理的な涙の筈だ。

「嗚呼、高坂様…善いわ…」

この女の目に浮かぶ快楽の涙ときっと同じものに過ぎないと、そう思う。
汗を流す事も涙を流す事も何の為だか解らない。
心から支えたい主君の為なら何でも出来ると思った。
実際何も苦では無い筈、だと云うのに、私は全てを捨てて主君への忠誠を取った、けれど。

「……姫、私は」

流れる涙は、

「んっ…、なに…?」

未だに何故だか解らない。

「……いえ」

昔から綺麗なものが好きだった。
この女も余計な思考を省いて見るなら充分美しいと言える部類のそれだろう。
表面だけで見るなら、姫と同じ。迚も綺麗な色に見えるのに、一体何が違うのか。

「もう、他の事なんて考えたらいけませんわ。今は、私だけに…高坂様の全てを、下さいませ」
「…それはまた、贅沢な願いですね」

私の全ては誰にも渡さない。
胸の奥は、心の一番奥の部分は決して譲れない大切がな人が居るから。

「どういう意味でしょう…?あ、」
「貴女は何も、気にする必要などありませんよ…」

自分を守る為に攻め立てて、その結果自身も考える余裕さえ甘ったるい波に覆われてしまう情けないこの事態。
ああ、私は、何をしているのだろうか。
今の私を貴女が見たら、さぞ蔑むに違いない。

『では、高坂は此処迄です』
『御見送り有難う御座いました』
『いえ。…姫、約束を覚えておいでですか?』

私の貰うべきだった褒美。
無事返って来たら何でも叶えてくれると貴女は言った。

『…どうか、幸せになって下さいね』

姫、貴女が幸せなら良いと、そんな下らない嘘を最後に吐いたけれど。

『はい…、有難う御座います』

複雑な笑みを浮かべた貴女はきっと気付いて居た筈。
私が最後に貴女に頼みたかった事はそんな事では無くて、本当は今生の想い出に一度だけでもその唇が欲しかった。
いや、本心からの欲を晒けてしまうなら、本当は一度だけで良いから貴女を抱きたかった。
貴女が幸せになってくれればそれで良いなんて格好付けた強がりで、そんなもの今考えてみればこれっぽっちも望ましくなんて無い。

「高坂様…んっ、泣いて、る…?」
「…煩い、」
「っあ、」

苛立ちに任せ突き上げれば虫唾の走る嬌声が洩れる。
私は今泣いて居るのに貴女だけ誰かと幸せなんてそんなの赦せない。
でも貴女も私のように不本意な排泄に流されそうな感覚に狂って居るならそれもそれでやはり赦せなくて、嫌だ、全部嫌で嫌で。

「嗚呼、もっと深く貫いて…」

嫌、だ。
側に居て欲しいのは貴女だけ、貴女でなければ嫌。
でもそれで貴女が不幸になるのは嫌で、だけど私が不幸なのに貴女だけ幸せなのも嫌で、でも同じ苦しみを味わっているのも嫌で。
それじゃ私が身を引いた意味が無いから、貴女には幸せになって貰わなければ困るけれどもやっぱり嫌で、なんて我儘な考えなんだろう。

「嫌、だ……」

愛を真似た退廃的な行為の中で踊り疲れた夢を見ては頭の中は孤独でしょうがない。
きっと誰にも解りはしないだろう、私だって誰の事も解らない。貴女の本心も解らない儘だ。
もしかしたら貴女にとっては私が御館様への忠心を抱いた儘でも側に居る事こそ幸せの形だったのかも知れない。
私がどんなに貴女を放っておいて御館様の事ばかり気にして居ても、貴女は文句の一つも言わなかったのかも知れない。
でもこの不器用な生き物はそれを由とは出来ないから、貴女が良くても私が駄目になる。
いっそ貴女に愛されなければ良かったのだろうか?
それもきっと辛い事に違い無い。
私の願う貴女の幸せは、私の幸せは、一体どんな形なら正しいと思えるのだろう。

「ねぇ、高坂様…っ」

絡み付く濡れた身体は気持ち悪くて仕方が無いのにその肌の温かさは泣きたくなる程安心出来て心地好くて、
この柔らかさに溺れる掌でも貴女の幸せを祈る力は残って居るのだろうか、解らないけれどただ何もかもが嫌だ、嫌だ嫌だ。

「う、るさい、」

黙らせる為だけに塞いだ唇からは吐き気を催す程に廃れた味がする。
けれど溶け合う温度に駆け巡る熱の行方は恋しい貴女では無く容易く繋がるこの肉壺に過ぎない相手なのだから私と云う人間は本当に腐り切ってしまったらしい。
既に着ている意味を成さない程に肌蹴た着衣から香る練香は毒々しい沈水、貴女が纏うなら至上の伽羅にもなるのかも知れないその香を聞けば胸は張り裂けそうに痛いのに。
私はまるで虫籠の蝶だ、高嶺の花に強く焦がれたところで安い贄を差し出されれば喰らわずに生き延びる事など出来無い。

姫。私は、貴女が好きでした』
『高坂様…』
『けれど、私には…貴女を幸せにする事が出来ません』

御館様の為なら。
その為にと一生一度の恋すら捨てた、国の礎になる覚悟は出来て居る、筈だった。
どんな事でも甲斐の繁栄を生むならば遣り遂せると自負して居たのに何故今苦しんでしまうのだろう。
務めを果たす、それだけの事と思えば良いものを記憶に残る貴女の笑顔に胸が痛む。

『何かあれば私は、御館様を一番に御護りしてしまいますから』
『高坂様、』

私には御館様と貴女を同時に護る事が出来なかった。
こんなに情けない人間なのに、それでも貴女は最後まで私を優しい瞳で見詰めてくれていた。
私の事を、好きだと、そう言ってくれたのに。
貴女を幸せにする事は出来無くても貴女を愛した事を恥じない生き方がしたかった。
今こうしている事も御館様の為なのだから、延いては主君の為身を呈すと云う大義に当たるのかも知れないけれどこんな事はちっとも誇れない。
主君に尽くす上で格好良い事ばかりでは無い事くらい解って居るけれど、それでもこんな事は、本当は、本当に嫌で嫌で今すぐ逃げ出してしまいたい。
結局私は半端者だ。
忠誠を誓った主君の為と割り切って任をこなす事も出来ず、自ら手放した貴女への想い出を振り切る事も出来ず。
そう結局格好付けたかっただけの半端者だからそんな奴だから穢れの無い瞳で見詰めないで。

『高坂様、それでも私は高坂様を……』

瞼に浮かぶその目映い想い出は辛い、辛過ぎる、もう二度と手の届かない純粋なら粉々に砕け散って幻影さえも見えない程に壊れてしまえば良い。
打ち払うように瞳を開けば目の前にあるのは陳腐な春画以下に爛れた光景で、それなのに高まる体温に飲まれて私はまた堕ちる、更に下へと堕ちる、

「高坂様、私、もう…」
「い、やだ」

こんな馬鹿げた茶番劇の中で限界を迎える程腐った私を貴女は何時までも変わらない綺麗な瞳で見詰めるから余計に辛くて悲しくなって、
私の幸せと貴女の幸せの正しい形が何なのかはやはり解らないけれどとにかく今は貴女の清い存在が胸に痛くて痛くて困るから、
今の私の幸せと呼べるかは解らないただひとつの願いはこんなに堕落した私を好きでなんていないで欲しいと云うこと、それが楽かは解らないけれどでも
ああもう本当によく解らないけれどいっそもっと堕ちる所まで堕ちたなら苦しむ心さえも感じる事無く済む気がして

姫、お願いだから…」

貴女以外の人を抱いて堕ちるしかない私の事などもう何とも想わないで、貴女が思う以上に私は駄目な男だから
純粋で美しい貴女の姿は眩し過ぎる、薄汚れた私は闇を纏わずには恥ずかしくて居られないからだからもうこんな惨めな私を照らさないで
ああ、どうかこの腐敗した劣情の中狂うしか無い私を嗤って、二度と立ち直れない程に蔑んで踏み躙って。

















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