自縄自縛




「お願い助けて!」
「殺さないで、どうか、」
「彼を殺されたら…私も生きて行けないわ、」
「どうか彼の命を奪わないで!」

剣客、それは護衛であったり刺客であったり。
金の為ならばどんな仕事でもする、そう云う存在だ。
躊躇わずに、無慈悲に、振り下ろす死の刃。
某かの命運に導かれ生まれ、生きた、人を殺す。
その傍らには、常にその人を愛した女が縋った。

「――なら、君も一緒に死ぬか?」

愛する人を失って生きる意味が無いと云うなら、せめてもの情けとして共に殺してやろう。

「な、何…?殺すなら一思いに、早く、」
「どうせ死ぬんだ。同じ事だろう」
「ねえ、何する、の……」

時代に必要とされなかったその命、最後に役立てて終わらせる事も悪く無い筈。
そうだろう?
満ちる事の無い月、宿ったとして廻る事の無い生命を抱いて散るのも一つも素晴らしい役目じゃないか。
俺のような日蔭者を慰めると云う確固たる役目を持って死ぬなら、それは君の幸運に違い無いと思うんだ。

「さ、わらないで、やめて、嫌ッ――!!」

ほらもっと叫んで足掻いて、最期の生を謳歌すると良い。
助けが欲しいのなら、神仏にでも祈ってみるか?
俺の祈りが届かなかったように、君の祈りも届く筈は無いと思うがな。
この世は力だ。
力によってのみ奪う事が出来る。護る事が出来る。
それが物理的な力であれ支配的な力であれ…誰も絶大なる力には逆らえない。
俺はそうやって強き者に全てを奪われ、軅て強き者となり全てを奪い返して生きて来た。
それが摂理、充分に弱者としての絶望を味わったなら、さあ、現世と御別れの時間だ。

「やめて、嫌、嫌あああああ!!!!!」

響き渡る悲鳴の喝采に酔い痴れて目を醒ます、



「……小次郎?」

見開いた視界を埋めるあどけない表情に、過去の罪は素早く逃げ去って行った。
けれどそれで心の中まで浚われる訳では無く、返す言葉は唯苦い物しか出て来ない。

「大丈夫ですか?魘されていたようですが…」
「…ああ。別に何でも無い」
「やはり私がきちんと見張りを出来ない所為で疲れているのでは、」
「そんな事は無いから気にするな。君とは関係の無い事だ」

寝起きの身体を無理に起こすと軽い眩暈がした。
耳には小さく彼女――姫の溜息が聞こえる。
何がどう気になるのか解らないが、彼女はとにかく俺の事が気になって仕方無いらしい。
一国の姫君が物好きなものだと思う。
俺の事など知っても、気分が悪くなりこそすれ決して楽しい事など無いと云うのに。
孤児にとって必要なだけの生きる基盤を造る、その為には数多の犠牲が付き物だ。
犠牲を生まなければ自身が犠牲になるしかない過酷な闘争の中生き抜く俺達にとって、綺麗事なんかは二の次よりももっと後で良い。
美しく清らかな御姫様には生涯無縁だろう…知らなくて良い、知らない方が良い黒い歴史は下賤の民に必ずあるものだ。
俺の事はただ俺を護衛としての腕のみ信じれば良いだけであって、他の事など何一つ信用しない方が良い。
それは誰が相手でもそうだ。
琴線に触れれば豹変する人間は沢山居る。欲に目が眩み豹変する人間も、沢山居る。
彼女は些か純粋過ぎて心配になる程だが…心配してやる義理も、本来なら俺には無い。
俺はただ、その無事を確保する為だけに必要とされる存在。
けれど、もっと良い話が持ち上がれば、何時裏切っても構わない。
それだけの、金で雇われただけの、薄氷の上で繋がれた主従関係。

「小次郎は山の事に詳しいですね」
「ああ」
「何処で覚えたのですか?」
「さあな」
「誰かに教わったのですか?」
「忘れた」

今日もまた、彼女の好奇心による詮索が始まる。
旅を初めて以来、毎日がこうだ。
頼むからこれ以上境界を越えようとしないでくれないか。
俺と彼女の関係は、唯護衛と姫としてのみ均衡を保って居る。
それを壊してしまえば…
俺の心の均衡も、きっと終わりが来ると解って居るから。
必死に必死に、彼女との距離を計って旅を続けた。

「小次郎、」

俺に無邪気に語り掛ける彼女に、只管壁を作り続けて。

「俺の事はどうでも良いだろう。それより…」

何度も話題を変える口実を探しては、その興味の先を別のものへ向かわせた。
そう自ら彼女を避けて、互いに歩み寄る事の無いようにと仕向けた、その因に依る果が現在の形だ。
後悔は過ちから生まれる。過ちは弱さから生まれ、弱さはまた愚かさを生む。
俺の選んだ道は…愚の骨頂と言えるだろう。



城の中、簡素な一室。
其処に籠る俺に、澄んだ声が掛かる。

「小次郎、入っても良いですか?」
「ああ。どうした?」

入って来たのは勿論、彼女。
この傷が癒える迄、それだけの限られた期間この城に逗留する事となった俺に、他の客人など居ない。

「相談したい事があるのです……」

憂いを含んだ瞳が俺を見詰める。
拒絶して拒絶し続けて、それでも尚彼女は俺を遠ざけようとはしなかった。
俺の事を何も知らないくせに、どうしてそんなに俺を一途に想えるのか解らない。
本当の俺がどれだけ強欲で脆弱で矮小な人間か、知らないくせに。
知らないで俺を好きだなんて、そんな事思って欲しくない。
けれど、本当の自分を知られるのは嫌だ、怖くて、軽蔑されるのが嫌で、知られたくないから距離を保って居たのに。
多分彼女は、俺のその隠された部分が気になって余計に惹かれてしまうのだろう。
なんて皮肉な展開だろうか。
俺のような人間が愛してはいけないと、愛しても結ばれる定命ではないと、解って居たから逃げて逃げて。
その結果が、より彼女に愛されてしまう事だとは。

「…なるほどな。女城主か。凄いじゃないか」
「他人事だと思って…」

彼女の瞳が悲し気に揺らぐ、嗚呼赦されるものなら今すぐ抱き締めて君の事を生涯護ると誓いたい。
この数多の命を奪って来た、血に染まった両腕で彼女を抱き締める事が赦されるなら…そうしてしまいたい。
逆に言えば、赦される筈が無い事を解って居るから焦がれるのだろうか。

「私にはそんな自信ありません…」
「逃げるな」

ああ、本当はこんな言葉を彼女に言える程俺は強い人間じゃ無いのに。
俺自身が一番逃げて居る、過去の罪の重さから、逃れ切れない悪夢から逃げ出したくて逃げ切れなくて苦しんで居る。
救われたいと願って彼女の光を求めた、その清らかな手ならば俺を夢の淵から引き摺り上げてくれるのではないかと期待して。

「…俺が付いて居てやる」

結局は自分自身の為に彼女を求めた。
けれど、結ばれない以上これから先はただ重荷になると解って居る。

「城主には護衛が必要だろう?」

俺を想ってくれるその純粋が、心の闇を一層昏く浮かび上がらせると解って居て、

「俺の主は…君一人だ」

捨てきれない望みに、光に、ただ跪き忠誠を誓った。



それから時は流れて、彼女は大人になった。
古橋殿が亡くなられ、奥方も亡くなられ…女城主として一人頑張って、昔より随分賢く逞しくなった。
人が人として成長すると云うのは、内面と外面を伴い進むものだ。
それでも、恐ろしい程にその純粋の色は汚れを知らぬ儘で。

「小次郎、城下へ視察に行くので護衛をお願いします」
「…ああ」
「頼みますね。小次郎だけが、私の支えですから…」

日々女に成って行く彼女を目の当たりにしながら護衛と云う絶対の領分を侵す事の出来ない俺は、一枚向こうの純潔が笑うのを唯見守るばかり。
俺の事を信頼し切って居る彼女を無理矢理にでも手に入れようとするなら、それは屹度簡単な事だろう。
二人切りになる事も、共に夜を過ごす事も、彼女は何も疑問に思いなどしないだろうから。
そうやって一つの無垢を黒に染めるなど容易い事だ…正に赤子の手を捻るよりも楽に済む、数分間の儀式。
それだけで人は壊れ歪み狂う、理性の鎖から解き放たれた姿がどんなものか、俺は良く知って居る。
知って居るどころか…きっと俺自身が、その暗黒の存在なのだろう。
幸いにして身の汚れは知らずに済んだが、心の穢れならばもう畜生道に堕ちた…心の飢えなら餓鬼道に堕ちた、生ける屍さ。

「なあなあ、姫様…あいや、城主様はよぉ、最近益々綺麗になったと思わねぇか?」
「だよなぁ…少し前までは子供っぽかったのに、今じゃすっかり一人前の女だ。あんな別嬪の嫁さん貰いてぇもんだぜ」
「お前にゃ百年早ぇよ。こんなしがない下男の身で、あんな良い女抱ける訳無ぇだろうよ」
「現実には、な。だけどよ、独り寝の御伽噺にゃ女神様くらい要るってもんじゃねぇか」
「おいおい…お前の寂しい夜伽話に城主様を使うなよ。ばれたら斬首もんだぜぇ?」
「俺の頭ん中だけの事だ、誰にも知られやしねぇよ。良いだろ、日々せかせか働いてんだからそんぐらいよぉ」

時折耳に入る下卑た会話。
そうだ、彼女が意識せずともその大人へと成長した色香は周囲を惑わして止まない。
あんな奴等に…例え直接的でなくとも彼女が利用されるなど赦せないと苛立つその時、自分もまた同じだと嫌気が差す。
直接触れる事を恐れて絶対の守護者である立場を選んだのだから。
そしてこの立場は彼等と同じ、使用人の一人に過ぎぬ身では現実的に彼女を手に入れる事など生涯叶いはしない。
解って居る、解った上で選んだ道だとは嫌と云う程解って居るからこそこの不快感は行き場を失い己の内を駆け巡るだけ。

「今日も一日有難う、小次郎。また、明日もお願いしますね」
「ああ」
「じゃあ、おやすみなさい」
「…おやすみ、

深く信頼された護衛、寝所は驚異的な迄に近い。
僅か襖一枚の隔てでありながら決して超えられぬ結界の向こうに彼女は眠る。
自ら彼女の飼い犬となった俺が自信を繋ぐ鎖を切って迄その一線を超えられる筈は無く、行き詰まる思考を止める為眠りを求めれば息詰まる過去の罪がこの身を縛る。
眠りは死と同じだと誰かが言って居た。
個人の存在を示す意思と云う力の働かぬ世界では、現存在を滅するだけの力を有して居た所で役に立ちはしない。
唯無力な一つの魂として過去の亡霊に囚われ、果てない闇の中を彷徨う哀れな逃亡者となる。

『貴方ニ殺サレタ怨ミ…』
『決シテ消エナイ、此ノ悲愴ニ依ル慟哭ハ…』

揺蕩う意識の中纏わり付く異形の売女は俺の所業を赦さず、

『貴方モ堕チレバ良イ…』
『決シテ抗エナイ、此ノ苦痛ニ依ル快楽ヘ…』

猶予う思考の中喰らい付く異界の洞穴へ飲み込まれて行く。

これが夢だと何処かで気付きながら、女達の怨みの強さ故か出口を見付けられない。
朧気な意識は確かに此処に在ると云うのに…

「う……、」

剣客として眠りは浅い方だ。それでも起きる事は叶わない。悪夢は俺を手放す気が無いらしい。
交錯する過去と現在の記憶、現実と夢、混ざり崩れ俺に手を伸ばす闇共の合間に浮かぶのは、麗しく成長した彼女の微笑。

『小次郎だけが、私の支えですから…』

艶を含んだ唇が描く孤形、それが俺の精気を吸い取ろうと這い寄る亡者の手付きに重なる。
悔しい、この罪の所為で俺は彼女を手に入れる事を躊躇った。それなのに今あの下卑た男共と同じ様に夢に重ねるとは馬鹿気過ぎて悔しい、悔しい。
俺のして来た事はそれだけ重い罪科を問われる事なのか?
孤児として哂われ奪われ蔑まれ、唯一手に入れた温もりさえも亡くしたあの無力な少年だった頃に決めた生き方。
生きる為に、唯その為だけに弱き生を侵し、その罪の捌け口に弱き性を犯し、斃れた者を足台に這い上がった俺の生き方は、それ程に重き枷を受けるべきものか?
奪う為に力を持ち奪われぬ為に力を利用し時代と権力の作為に抗い未来を掴んだ、ただそれだけだ。
人は欲を抜きに生きる事など出来ない。
生きると云うそれだけの原始的な事でさえ生への欲求無しには成り立たないのだから。
無作為に襲い掛かる死から逃れる為には強欲な迄の意思を、それを持たねば打ち勝てぬものなのだと思って生きて来た。

『小次郎は、どういった経緯で私の護衛になったのです?』
『……今は関係無いだろう?』

真っ直ぐに見詰められた、あの瞬間の青い鼓動の高鳴り。
あの時既に恋をしていたのかどうか、ただ彼女を遠ざけたいと反射的に思った。
それは自身の醜さを隠す為の虚栄か、彼女を穢れから護る為の配慮であったのか…、
動く屍達はそんな事を悩む暇さえ与えては呉れず、俺が嘗て其等に注いだ命を成さぬ雫を奪おうとする。

『サア貴方ノ罪ヲ悔イテ』
『罪深イ無益ナ生ノ雫ヲ』
『欲ノ儘私ニ吐キ出シテ』
『苦シンデ嘆イテ喚イテ』
『深イ闇ヘ堕チレバ良イ』

もう、解らない、解ろうとする気さえ奪われて、

『あなたの事が気になったのです』
『………っ』

あの頃の未熟な感情が本当に恋だったのかどうかも、解らない儘に。
ああまったくただ生きて居るだけでどうしてこんなにも恨まれ責められなければならないのか解らない、お前達だって生きたかっただけだろう、
だからこそ生を手にして居る俺を羨んでこうして人の安眠を妨害しに現れて何がしたいんだ全く伝わらない俺には解らない。
亡者共の嗄れた哂い声が鬱陶しくて萎える思考力とは裏腹に立する自身を律する余裕ももう無い、それでもこんな奴等に俺の欠片を奪われるのは嫌で、

…、お願いだから」

魘される悪夢の世界、その中で唯一優しく笑い掛けてくれるその存在、もうそれに縋るしか無いから
犯した罪の意識に侵されて狂って行く俺が無意識に包まれた儘に催す鈴口からの嘔吐は目覚めれば口から嘔吐しそうな腐った欲でしかないけれど
どうかこの虚しい夢の世界の中だけでも抑え切れず零す雫を掬って、夢魔に絡めれられたこの身を救って。















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