泪零痛哭
時代の犠牲者だ。
そう言ってしまえばさぞかし美しい事だろう。
想い出は想い出として美しく胸に留める…そんな事が出来たなら、これ程苦しんでなど居なかった。
「政宗様、本日も遅く迄の御勤め御苦労様です」
「…ああ」
妻が悪い訳では無い。
寧ろ悪い女であったならもっと楽だったのだと思う。
「私では何も政宗様のお役に立てませんから、御無理なさって居られないか心配です」
「俺なら適当にやって居るから大丈夫だ。愛こそ、毎晩俺を待たずとも良いぞ。寝不足で倒れぬか心配だ」
俺の事を想い、常に案じてくれる妻。
控え目で思慮深く、あの口煩い小十郎も素晴らしい姫だと太鼓判を押した女。
それに文句がある筈も無い。
これだけ自分の事を想い、案じてくれる女を邪険に出来る男が居るなら見てみたいものだ。
相家の繁栄の為…望まぬ婚姻を結んだのは御互い様の事。何の罪も無い妻に辛い思いをさせる訳にはいかない。
それに望まぬ夫婦生活、と云うものを考えると、嫌でもお前の事を思い出してしまう。
俺だけを愛してくれると誓ったお前が今、どんな気持ちで婿養子と過ごして居るのか。まさか冷たくされたりはしていないか。
俺が叶えてやれぬ幸せだったのだから、せめて見知らぬ相手であれど愛されて大切にされて居て欲しい。
そう思うと、俺も俺の妻となった人を大切にする事が義務なのだろうと思えて…
「私なら平気です。それに、旦那様より早く休むなど出来ません」
「…それだけでは無いだろう?」
「えっ、」
「そちらの両親も中々せっかちなようだからな。まあ、相手が俺では心配になるのも解るが」
「御存知でしたか……申し訳御座いません、少々口の過ぎる両親なのです。けれど、きっと本心では純粋に早く孫を抱きたいだけなのでしょう」
俺が遊び人と名高い人間だったからだろう、妻の両親は早く世継ぎを、と常々妻にせっついて居るようだった。
次々に側室でも迎えられて先に男児が生まれてはたまらないといったところだろう。
城主としてそう云う情報はあらゆる所から仕入れる事が簡単で、幾らでも耳に入って居た。
そして、その影では必ず妻が「政宗様は御忙しいからすぐには世継ぎなど」「政宗様は私をとても大切にしてくれているから大丈夫」と言っては、
親族の騒ぎ立てるのを鎮め、俺の耳に入らぬようにと気を使っていてくれた事も。
「…愛。天下を取ったばかりで忙しく等閑になっていたが…そろそろ世継ぎの事も考えなければな」
婚姻を結んで一ヶ月。
一度も手を付けぬ俺に、文句の一つも云わなかった妻。
何時までもそれに甘えて居る訳にはいかないと解って居る。
「政宗様…」
「愛も色々と心無い事を言われて辛かったろう。俺が不甲斐無い人間なばかりに、済まない」
「いいえ、私はそのようなこと…」
口さがない侍女達の間で、妻は俺に愛されて居ないだの女として魅力が無いからだの、散々に言われて居た事も知って居る。
「式から随分時間が経ってしまったが…俺のものに、なってくれるな?」
もう、これ以上逃げる事など、赦されないのだ。
「はい…、政宗様……」
微笑みながら眦に涙を溜めて頷く妻を、そっとそっと、壊れ物を扱う様に抱き寄せる。
まるで大切な想い出を閉じ込めるように、傷付き易い感情を護るように、柔らかく腕の中に閉じ込めて。
お前への想いと決別など出来る筈も無い、ただ、受け入れなければならない義務を果たす為に、妻の帯に手を掛けた。
妻は田村氏の可愛い一人娘。
大切に大切に育てられたその体は清らかで、少し力を入れたなら折れてしまいそうだ。
そんな事を考えて、お前の事もそう思って居たと思い出す。
奢で可憐で世間知らずな御姫様。それでいて芯はしっかりしていて、時折驚くほど気の強いところを見せる。
考えれば考える程似て居て、重なる唇もお前と最後に交わした温もりを思い出して辛いのに、逃げる事は赦されない。
交合自体は遊び人の肩書が付いた身、手慣れたもので滞りなく進める事は出来るけれど。
「痛いか?」
「平、気です…」
必死に受け入れてくれる妻に返す優しい微笑は、悲しみを湛えては居ないだろうか。
妻が健気に笑えば、その儚さはお前に重なり美しい記憶で俺の胸を締める。
その儚い美しさは触れば脆く崩れて、壊れた破片が胸に刺さる。
痛い、けれど、痛みは、決して、表に出せない。
『俺は、何も…叶える事など出来ないのか』
あの頃から少しは強くなったと思うから。
『政宗様には、天下の夢が残って居ります』
痛みを堪えて笑ってくれたお前のように、俺も少しは我慢をしなければならないだろう?
「政宗様、」
「辛いか?」
「いいえ…、嬉しい、のです…やっと、政宗様のものになれて…」
「…そう、か」
涙を浮かべる妻の頭を優しく撫でて、俺は微笑を保ち続ける。
一ヶ月も構わずに居て、漸く抱いた相手が痛みを堪えてそうまで言うのだ。
男として愛しく思わぬ筈が無い。そして、男としては当たり前の事だ…欲が滾らぬ筈が無い。
「ならば少し無理をさせてしまうかも知れないが、良いか」
「はい、私は、政宗様の下さるものなら全て…痛みであろうと、受け止めます」
初めての痛みを堪えに堪えて笑う妻。
ああ、どうして女はこうも強い生き物なのだろう。
俺はやはり駄目だ、右目を失った時、どんな痛みも乗り越えられると思ったのに。
『いつか必ず、お前を迎えに行こう』
お前を失った時もやはり痛みに耐え切れず弱い姿を見せて。
『政宗様……』
微笑んで首を振るお前は俺より遙かに傷付いて居たに違いないのに、ただ全てを受け入れて、俺を赦してくれて。
「政宗様…、」
「愛、」
俺が今こうして妻を抱いて居て、しかもそれが完全なる義務ではなくて愛しく思ってしまって居て、この情景を知ってもお前は笑ってくれるだろうか?
逆の立場で考えると俺にはとても出来そうに無い、幾らそれが相互の幸せの為でもう戻れない関係はどうにもならないのだと解って居ても、それでも、
実際にそんな場面に出くわしたら、お前の口から夫を愛しいと思うと聞かされたら、きっとまたみっともなく泣いて嫌だと駄々を捏ねてしまう。
それが俺にとっては痛い程に愛した証で結果でそういう形でしか表現する事が出来ないからそうなってしまうけれど、もしかしたら男は皆そうなのかもしれないけれど、
でも俺だけが泣いてばかりでは恰好が付かないし何だか少し悔しいからもしまたお前に会えるならどうか我慢せずに感情をぶつけて欲しいと思う。
妻を大事だと思いながら結局この大事な局面でお前の事しか考えられないあたり俺は良い夫になる事もどうやら出来そうに無い、つくづく駄目な男だと思うでももうそんな見栄なんてどうでも良い
「…、お願いだから、」
妻の清い鮮血と痛みを堪える詰まった声混じりの高まる打ち付ける欲の音が響けばもう全ては押し流されてしまうけれど
もう取り繕った微笑なんて疲れて全て投げ出したくてただ痛みと享楽に垂れ流す澄んだ涙と濁った涙に霞む先で今も笑うお前ももう一緒に虚栄なんて投げ出して
どうかこの虚飾の夢物語の中だけでも涙を流して、まだ愛されていると感じさせて。
了
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