妖寵愚隷




痛みを知れば人は強くなれると誰かが言って居た。
それが本当かどうかは解らない。
けれど少なくとも私にとって、痛みは単なる苦痛、それだけのものでしか無かった。

「起きて下さいな、兼続様」
「ん……」
「もう朝ですよ」

肩を揺すられ、重い瞼を開く。

「御寝坊さんですね」
「……あ」

目の前で笑う彼女、その姿を見て、光の差し込む室内が真っ暗に見える程絶望を感じた。

「どうなさったのですか?ぼんやりして…」

上機嫌に笑う彼女、船は昨日私の妻となった人。
そして私は昨夜、彼女と…

「昨夜頑張り過ぎてしまいました?兼続様ったら激しかったですもの」
「そう、でしたか」
「ええ。その後、気を失ったようにぐっすり眠っていらしたから、余程お疲れなのでしょうね」

思い出す、自身の、あまりに情けなく汚らわしい姿を、鮮明に。
この心は報われぬとしても姫に捧げると、そう決めた筈だったのに。
あの一時、何もかも忘れて彼女の身体に溺れて居た私は、どれだけ愚かな人間なのだろう。

「兼続様、私はとっても嬉しいですわ」

絶望に暮れる私とは対照的に、彼女は頬を染めて笑う。

「私、ずっと兼続様の事だけをお慕いして居りましたから…あんなにも求めて頂けて、嬉しいのです」
「そう、ですか」

詰まらぬ返事の私に、彼女はそうです、とにこやかに頷いた。
私のような男の何処が良いのだろう。どうしてそんなに笑顔で居られるのだろう。
面白味も無い、仕事が一番の人間で、しかも、心の中には他の女性を想い続けて居るようなこんな男の、何処が。
嘗て私が思い描いて居た家庭と云うものは、こんなものでは無かった。
人には愛が無ければならない。
愛し愛され支え合う関係、それが家庭であるべき筈だったのに。
今の私は届かぬ愛を求め注がれる愛に背を向け、何も出来ぬ駄目な男だ。
どうしてこうなってしまったのだろう。
婿養子と決まった立場にありながら叶わぬ恋などした事自体が間違って居たのか。
それでも私は姫への想いを手放す事など出来はしない。
誰と婚姻を結ぶも子を生すもどうでも良いと思って居た私が、初めて心から愛した女性なのだから。
愛を掲げながら本当の愛を知らなかった私に、それがどれだけ辛いものか教えてくれたひと。
辛く悲しく、けれど何よりも尊いものが愛なのだと知った。
だから私は何があっても…この感情を捨てる事など出来ない。
そして姫以外の人を愛する事も、出来る筈がない。
姫が手に入らないからと言って別の誰かで埋め合わせが出来るような、そんな簡単な感情ならいっそ楽だったのだろう。
離れれば忘れてしまえるのではないかとも思ったけれど、一度根付いた愛は決して枯れる事など無かった。
寧ろ他の女性――彼女が側に居る分、ありありと姫への想いが浮き彫りにされて。
彼女がどれだけ私を愛してくれようと、私は決して応える事など出来ない。
婿養子として家名を継がせて貰っておきながら、なんと罪深い事だろう。
義父上にも、彼女にも、私は永遠に不貞を働く事になるのだ。
きっと死後の世界は平和なものではないだろう。赦されぬ罪に永久に焼かれる罰を受ける事となるだろう。
その覚悟はある、どんな苦行も甘んじて受け入れる覚悟は確かにあるのに、

「まあ、兼続様、昨夜の事を思い出してしまいました?」
「え……」

どうして目の前の快楽にはこうも弱いのでしょうか?

「ふふ、こんなに立派になさって…そんなに私をお気に召して下さったのですね」
「いえ、その…」
「恥ずかしがらないで下さいませ。私は、嬉しいのですから」

笑う彼女の寝着は昨夜の足跡を残し乱れて居る。
その隙間から覗く白い肌から、どうしても、視線が外せない。

「ねえ、兼続様。もう辺りも明るいですし、時間もありませんから…」
「な、にを」
「今宵また、ちゃんと御相手致しますわ。だから、今はこれで我慢なさって」

するりと伸ばされた手、寄せられる赤い唇。
朝から何と云う事を、と拒む事は幾らでも出来た筈だ。

「っ、」

それなのに、私は身動き一つ出来ず、ただ彼女に侵蝕されるが儘。
粘膜が摺り合うだけ、ただそれだけの事がこんなにも理性を崩すとは知らなかった。
そしてそれは一度知ると、二度と逃れられない誘惑の味をして居る。

「こうされるのが御好きですか?」
「う、」
「ふふ、もっと私で悦んで下さいませ」

ちらりと揺れる赤い舌先はまるで蛇、私は蛇に絡められた蛙か、今にも飲み込まれそうな鳥の卵か。
ああそんなもの何だって良い、どちらにしろ逃げる事は敵わないと云う事実は確かなのだから。
けれど決して彼女が稀代の悪女と云う訳ではない、ただ悪いのはこの浅薄な私。
主君と直江の姓を捨てられず姫を見送って、今彼女の甘い色香に逆らえず自ら堕ちて行く。

『姫を放せ……!!』

あの時、姫を護る為に死すならそれは幸せだと思って居た。
誰より愛しい人を救って死ぬ。男として、それ以上の幸福は無い。
なのに、私は生き永らえて。

『兼続様、しっかりして下さい…!』

ただ姫を泣かせ傷付かせた罪と、望まぬ婚姻を受け入れる事を余儀無くされ。
そして、行き場の無い想いだけが残った。

『…姫、私は貴女が好きです』

最期に握った掌は温かく、柔らかく。

『兼続様…』

涙を浮かべて微笑んだ姫は、ただ美しく。

「…っあ、もう、」
「兼続様、どうぞ私に全て吐き出して」
「くっ、」

それに比べて私はどうしてこんなにも醜く愚かで救われない?
ああ酷い、武士としても人としてもまるで腐り切って居る駄目で仕方無い酷い奴だ。
意識が混濁して行く、全ては赤と蜜と混ざり混ざって嗚呼、

『…船様と、御幸せに』

最期に笑った姫は、本当にそれを望んで居たのだろうか?
もしかしたらそれは強がりで、心の奥では私の事を想って居てくれたのではないかと期待してしまうのは愚かだろうか?
愚かでも良い、そんな事今更構わない、私はとっくに愚かさの底辺迄来てしまって居るのだから。
室に満ちる目映い朝陽すら届かぬこの胸中の深い闇の中で今更何を恥じる必要があるだろう。
男の癖に情けなくただ一人の女性に縋る愚かな私。男であるが故にただ一つの欲に逆らえぬ惨めな私。

姫、お願いですから…」

彼女の口内の熱に侵されてだらしなく吐瀉してしまいそうなこの身をどれだけ戒めようとしても思考など届かないその衝動は止まる事を知らず
姫への愛だけは美しい儘に取って置きたいのにそれさえも汚してしまいそうな自身の弱さ穢れがただ悲しくて私はもう何の光も見えない程雁字搦めで
どうかこの悲劇の中で涙に暮れる私を慰めて、永久に醒めない幸せな夢だけを与えて。

















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