二人三脚
「うー、ん」
何だか朝から調子が悪かった。
「華ちゃん、大丈夫?」
「はい、大した事は無いのですが…」
あまり心配は掛けたくない。
そう思って歩き出しても、倦怠感が体中に纏わり付いて来る。
「ゆっくり行こうね」
「はい…すみません」
「ううん、ずっと野宿だったし疲れるのも無理ないよ」
正成様は私に歩調を合わせて、出来るだけゆっくりと歩いて下さった。
でも、此処数日はずっとこんな調子な気がする。
確かに最近は野宿続きだったけれど、正成様と旅に出てからもう二年も経つ。
元々山国育ちの私としてはこういう生活にもすっかり慣れた気で居たのだけれど…、
どうしてこんなにも疲労感が抜けないのだろう。
「今日はちゃんとした宿で休ませてあげたいんだけど…」
正成様は困った様に微笑む。
中々山を越えられないのも、私の所為だ。
私がすぐ疲れてしまったり、朝起きるのが遅くなったりで、今回の山越えには随分と時間が掛かってしまって居る。
足を引っ張って居る様で本当に申し訳無いのに、気持ちとは裏腹に身体は動いてくれない。
朝から移動を始めたと云うのに、太陽が一番眩しく輝く時刻になっても距離は殆ど進められなかった。
「この辺で御昼休憩にしようか」
「はい」
休憩、と言われるなり、座り込んでしまう。
身体が重くて重くて、何もしたくない。
火を起こしたり水を汲んだり、お手伝いしなければならないのに…
「其処で魚取って来るから、華ちゃんは休んでて」
私の気持ちを読んだかの様に、半蔵様は優しく微笑んでくれる。
何もしないなんて申し訳無いけれど、今の私はその言葉に甘える事しか出来なかった。
川に向かう正成様の姿をぼんやりと眺めて居ると、途方も無い眠気が襲って来る。
そういえば最近疲れ易い上に眠い。
妙な倦怠感と言い、風邪の引き始めのような。
元々山国育ちであるから身体は強いと思って居たのだけれど…やはり疲労が溜まって居たのだろうか。
そんな事を考えながらただぐったりと座り込んで居たら、今度は吐き気にまでも見舞われた。
「う、」
胸元を抑えて蹲る。
正成様の目の届くところでみっともなく吐いたりはしたくない。
幸い、胸はとてもむかむかするけれど、今すぐ吐いてしまう程の事ではなさそうだ。
…その前に、私は今吐き出せるようなものがあっただろうか?
よく考えてみれば、今朝からずっとこんな調子だったから朝餉も口にしなかった。
それなのにどうしてこんなにも胸やけのような感覚がするのだろう。
「華ちゃん、どうしたの?」
私が蹲っている事に気付いた正成様が慌てて駆け寄って来る。
「いえ、その…何だか、胸の辺りが…」
「気持ち悪いの?大丈夫?」
「暫く休めば、治ると、思います…」
「でも顔色悪いよ?とにかく、横になって」
正成様は素早く上着を脱ぎ、それを枕にして私を寝かせてくれた。
横になると少しは楽になった気がしたけれど、倦怠感は重く圧し掛かった儘だ。
「何か重大な病じゃなければ良いけど…。医者に診て貰うにしても、まずはこの山を越えないといけないし…」
「少しだるいだけですから、大丈夫だと思います」
「胸やけもしてるんだから…食当たり?でもお腹は痛くないんだよね?」
「はい…、?」
お腹?
その言葉に何か引っかかるものを感じた。
何だろう。
思考を巡らせる私の横で、正成様も腕組みをして考え込む。
「何か他に、体調悪いって感じたりした事ない?」
「そうですね…此処数日、中々疲労感が抜けなかったことくらいでしょうか」
「それって普通の疲れとは違う感じ?」
「普通の疲れ…」
こうして考えてみると、普通の疲れがどんなものだったか解らなくなる。
疲れて居る時は何時もこんな感じだっただろうか。
「ええと…」
「何となくの感覚で良いから。症状をある程度把握しないと、適切な処置が出来ないし」
「そうですね……」
何となく思った事と言えば、長く旅をして慣れた筈なのに酷く疲れたと感じた事だろうか。
となるとこれは普通の疲れとは違う疲れと云う事になる…、いや、その前に何か引っ掛かる。
先程も思った事だけれど、何かこう…二年間の旅の中で、今までと違う何かが……
「――あっ!!」
突然大声を出した私に正成様の肩がびくりと跳ねた。
けれど今はそれを気にする余裕も無い。
大変な事に気付いてしまった、かも知れないのだ。
「ど、どうしたの?びっくりした…」
「正成様…」
異様なまでの疲労感、お腹は痛くない?と聞かれた時の引っ掛かり、そして二年の旅。
そう、二年も旅をして居たのだ。その間、毎月どれだけ苦労した事か。
重い腹痛に悩まされる、あの月の障りに。
「私…、もしかして……」
それが、来て居ない。
ひと月?ふた月?ああすっかり忘れてしまって居た。
元々旅暮らしには邪魔でしかなかったものであるし、月の障りなど来なければどれだけ楽かと思って居たからか。
「な、なに、どうしたの?もしかして?」
「もしかして…、あの、その、」
何と伝えれば良いのか解らず、腹部に手を当ておろおろとしてしまう。
「その、月の障りが…」
「あ、急にきちゃったの?」
「いえ、そうではなく…、その、ずっと…来て居ない、のです……」
「………え」
正成様の動きが止まる。
二人とも妙な格好で固まる事暫く、先に動いたのは正成様だった。
「ちょ、っと待って、それって」
かくかくとぎこちない動きで私の腹部に手を伸ばす。
「それって、も、もしかして、子供……?」
「は、はい……」
「俺の、子供が、出来たってこと…なの、かな…?」
「そう、かもしれません……?」
経験の無い事だ、絶対と云う保証は無いけれど。
恐らく、きっと間違いないと思う。
「ど、どうしましょう…?」
とにかくまずは医師に診せるべきなのだろうが、此処は山の中。今すぐどうする事も出来ない。
病では無いのだから急いで診て貰う必要は無いのかも知れないけれど…焦ってしまって他に何も思い付かなかった。
ああ、こういう時はどうすれば良いと習っただろう。
母上から幾つか聞いて居た気がするのに、その当時はまだ先の事と思って居たからかちっとも思い出せない。
どうしようどうしようとただ狼狽えるばかり。
「華ちゃんが、俺の、子供……」
けれど私以上に、正成様の方が狼狽えて居た。
「どう、しよう、どうしよう!とにかく何処かの村!医者!でも身体動かせないしどうしよう!」
俺が背負って行っても振動が伝わるし万が一があったら怖いし…!と頭を抱えて私の周りをぐるぐる歩き回る。
どんな時も冷静な判断力と大きな包容力で私を守ってくれて居た正成様が、こんなにも慌てて居るのを見るのは初めてで。
最強の忍と云われた人が私の妊娠にこうも取り乱すなんて、と思うと、逆に私は少し落ち着きを取り戻せた。
「正成様、大丈夫ですよ。今迄だって普通に山道を歩いて来れたのですから、休憩したら出発しましょう」
「それは駄目!今迄は気付かなかったからだけど、身重って解った以上は無理させられないよ!絶対駄目!」
「ですが、この山を越えない事には宿も医師も頼めませんよ?」
「そうだけど…だって、華ちゃんに何かあったら…」
真剣な表情。
私を案じてくれるその気持ちは、深い愛情から。
それが嬉しくて、きっと全てが大丈夫だと思えた。
「私なら平気です、正成様。このままではどうにも出来無い訳ですし、ともかく村を目指しましょう?」
こんなにも深い愛に包まれているなら、私も胎の子も無事に決まって居る。
それに、このままでは埒が明かないのも事実だ。
正成様もそれは解って居るからだろう。中々納得してくれなかったけれど、暫く唸って悩んだ後で渋々頷いてくれた。
険しい道では正成様に抱き上げて貰って移動する、と云うのを条件に、私達は山道を下った。
そうして無事に日暮れ前に山向こうの村へと到着し、医師の診察を受けた後に医師宅近くの宿に落ち着く事となった。
「此処なら何かあったらすぐ医師を頼めるし安心だね。でも、絶対安静にしてなきゃ駄目だよ」
「大丈夫ですよ。お医者様にも、とても順調だと言って頂けましたし」
「そういう時に油断するのが一番よくないの!華ちゃんはすぐに無理するんだから、勝手に動き回るのは絶対にだーめ!」
「正成様は心配性ですね」
過保護なまでの待遇に笑うと、正成様はぷうっと頬を膨らませる。
「しょうがないじゃん、子供が生まれるなんて初めてなんだもん。俺はその子の父親になるんだからね、色々心配するのは当然ですー」
「ふふ、確かにそうですね。笑ってすみません、拗ねないで下さい」
「拗ねてなんかいませんー、子供じゃあるまいし」
そう言いながらもその頬は膨らんだ儘で、私はやっぱり笑ってしまった。
旅の道中とはまた違う、一つの場所に留まり同じ屋根の下で共に過ごす穏やかな時間。
それは私達は夫婦なのだな、と再認識出来る、本当に幸せなものだった。
毎日胎の子に語り掛けながら、その誕生を待つ暮らし。
やがて私の腹部は傍目にも解る程に張り、新たな命の重みを実感出来るようになった。
もう流産の心配はほぼ無い。
そうなると正成様の心配も薄れて来たようで、また、私が身重である事に慣れても来たのか、以前のように焦る事はなくなった。
けれど、今度は私が。
「…はあ」
正成様が落ち着きを取り戻した頃から、逆に私は徐々に不安が募っていた。
今はこうして宿に留まって居るけれど、いずれまた旅暮らしに戻る日が来る。
移動続きの毎日で、私はきちんと子供を育てる事が出来るのだろうか。
森や山の獣に狙われたりしないだろうか、急に熱を出したらどうしようか。
まだ生まれる日は先だと云うのに、生まれてからの事が気になって。
不安な事ばかりが頭を過る。
「華ちゃん、どうしたの?暗い顔して」
「…いえ、何でもありません」
正成様の御顔を見ると、以前言っていた『俺はその子の父親になるんだから』と云う言葉が思い出されてまた辛い。
私は、この子の母親になるのだ。
私などに務まるのだろうか。一つの命を護り育てる、母親と云う大きな存在が。
「何でも無いって顔じゃないでしょ。此処最近ずっと溜息ばっかりだよ。何か悩みがあるなら話して?」
「正成様……」
悲し気な微笑。
私がずっと塞いでいるから、正成様の笑顔も曇ってしまっている。
自分の弱過ぎる感情を知られるのは嫌だったけれど、大切な人を悲しくさせてまで誤魔化す事は出来そうも無い。
「情けない、事なのですけれど…」
言いたくないと思って居た事は、話し始めると勝手に次々と言葉になった。
本当は聞いて貰いたかったのかも知れない。
不安な気持ちを打ち明けて、慰めて貰いたかったのかも知れない。
そう思うと、余計にそんな逃げ腰な自分が嫌になったけれど。
「…成程ね。それで悩んでたんだ。全く、華ちゃんの方が俺よりよっぽど心配性だなあ」
全てを話し終えると、正成様はにっこりと笑ってくしゃくしゃと頭を撫でてくれた。
「良い?華ちゃんは、一人じゃ無いんだよ。何時だって俺が側についてる。君は新米母親で、俺は新米父親。二人で一緒に頑張れば、きっと大丈夫」
そう言って肩に回しかけた腕を止め、腹部を圧迫しないようにと私の後ろへ回って抱き締めてくれる。
ゆっくりとお腹を撫でてくれる掌は温かく、まるで其処から優しさが体内に染みて行くよう。
「二人三脚で頑張って行こうよ。今迄、俺が不安な時は華ちゃんが助けてくれた。華ちゃんが不安な時は、俺が助けるから」
それは愛情だけで構成されているのではないかと思える程、慈しみに満ちた声。
その声を聞いて居るだけで鬱々としていた気持ちなど吹き飛んで、この胸には喜びと勇気が湧き上がる。
そうだ、きっと大丈夫。
正成様は最強の忍にして最愛の夫、そして最高の父親になるに違いない人なのだから。
あれこれ悩む必要なんて無い、私達は素晴らしい家庭を築けると信じて行こう。きっと、未来はその通りに待ってくれて居るのだから。
「正成様、」
有難う御座います、と伝えようとしたら。
「…あ。子供が増える訳だから三人四脚?うーん…」
正成様は数秒間真剣に首を捻って考えると。
「でも、子供はすぐに歩けないから。二人で抱っこして二人三脚で良いよね!」
会心の回答、といった笑みを浮かべたから、私はそれ以上言葉を紡ぐ余裕がなくなって。
「…ふふっ、そうですね」
「あ、今馬鹿にしたでしょ!」
「いいえ、そんな事ありませんよ?」
「絶対馬鹿にしたもんねー。ふんだ」
「すみません、もう笑いませんから、拗ねないで下さい」
「拗ねてなんかませんー」
笑い合う、穏やかな時間。
この幸せをやがてはこの子と共に分かち合う為に、もっと強くなろう。
一人前の母親になるその日まで、二人で子供を抱っこして、二人三脚で頑張ろう。
了
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