逆ハ蝶
姫と夫婦になった晩。
床入りの時刻まで、私達は婚儀の疲れも忘れ語り合って居た。
「姫と離れて居る間は、とても時間が長く感じました」
「私も…高坂様と離れて居る間、とても寂しかったです」
姫は私の傍らで可愛らしく笑ってくれる。
これはからは何時でも、何時までもこうして居られるのだと思うと、あまりの幸せについ頬が緩んでしまう。
「寂しさを紛らわす為に、その間、少し勉強をしておきました」
「勉強?何のですか?」
「蝶についてです。高坂様の御好きなものなら、私も一緒に分かち合いたいですから」
「姫は…本当に、突然可愛い事を言うから困りますね」
蝶の羽根は美しいけれど、それも羽化するまでは女子なら誰でも嫌がる毛虫の姿をしている。
きっと姫もあまり気分の良いものでは無かっただろうに、私の趣味に合わせて学んでくれるとはなんと可愛いのだろう。
「そ、そんな…。良い勉強になって良かったと思って居ます。高坂様に似ている蝶も見付けられましたし」
「私に似ている蝶ですか?それは、どの…」
そう聞き返した時、失礼致します、と声が掛かった。
「姫様、昌信様、そろそろ御支度を」
侍女にそう言われ、急激に緊張してしまう。
支度と云うのは勿論床入りの支度で、それは即ち夜伽の始まりを意味する。
「では…また後ほど続きを聞かせて下さいね」
「は、はい…」
互いに身を清めたり衣を替えたりで一旦離れる。
この一旦離れる間が余計に恥ずかしいのでは、と私は思うのだが…
何かこう、雰囲気に任せてなし崩し的な流れでも良いのではないかと思う。
遠い未来ではそんな風にした方が絶対に合理的だと思うけれど、ともかく今はこうしなければならない。
それが手順と云うもので礼儀であるからだ。立派な大人が作法を破る訳にはいかないだろう。
そう、私は大人。
きっと姫の方が緊張して居るに違いないのだから、年上の私は余裕を持って落ち着いて振舞わなければ。
支度を済ませ閨に入る。
向かい合って座ると、やはり姫は何処かぎこちない表情を浮かべて居た。
「もしかして、緊張してます?」
「少し……」
その答えを聞いて、何故かほっとしたような気持ちになった。
そうだ、やはり姫は、まだ幼いくらいに若いのだから、緊張して当然。
「当然ですよね。一度しか無い夜な訳ですし」
安心させるように微笑みながら、私の中の緊張も完全に消えた訳ではないけれど。
それを姫に気取られる程では無いと思う。
これでも古参軍師、古株と言われる人間だったのだ。
大人の威厳と面目を失わない程度の取り繕いなら出来て居ると思う。
「優しくしますから、高坂に全て任せて下さいね」
余裕の笑みでそう言った…つもりだけれど、何故か姫は少し笑って居た。
緊張が隠し切れていないのだろうか。
ばれて居ると思うと少し照れ臭いけれど、夫婦になった以上それも良いかと思える気持ちがあるから不思議だ。
姫にはこの臆病な気持ちがばれても恥ずかしく無い。
夫として格好付けたいところはあるけれど、そんな見栄よりも甘えたい素直な感情の方が強い。
それに姫は、私のとんでもない失言も咎めずに居てくれた。
これはもう、多少の事は場の流れと云う事で晒してしまおう。
私がどれだけ姫を求めて居たか、今側に居られてどれだけ嬉しいか、偽り無く伝えるにはその方がきっと良い筈だから。
見詰め合って、唇を重ねて。
それはそれは甘い、天にも昇る気持ち。
少し前までは戦場で死ぬ事しか考えて居なかった私が、愛する人との口付けで死を思うなんて、可笑しい程に幸せで。
「姫は甘いですね。花の蜜みたいです」
もっと、もっと欲しくなってしまって。
先程迄あんなに手順だとか大人としての余裕だとかを気にして居たのに、そんな事はもう微塵も感じられない。
ただもっと、その甘さに溺れて幸福を噛み締めたい。
嫌がる事はしないと言ったけれど、嫌がる姫も可愛いし。
男としては、ねえ、好きな子程ちょっと苛めたくなるものでしょう。
それに、本当に嫌がる事なら話は別だけれど、きっと姫は嫌では無いのだから。
単に恥ずかしがっているだけだと解る、だからこそ苛めたくなってしまう。
「その恥ずかしがる顔も。全部、全部、大好きですよ」
意地悪な人だと思われてしまうかもしれないけれど。
多分、男と云うのは皆意地悪に出来て居るのだと思う。
軍師だ頭脳派だと言っても男と云う生き物は単純なもので、自分の力で相手の表情を変えられる、と云う事に弱い。
それだけ自分が相手の全てな気がして、愛されている、頼られているのだと実感出来て。
そして一通りからかったら、今度は愛しさが我慢できなくなる我儘な生き物、そう云う造りだ。
更に性質の悪い事に、好きな相手にならそんな我儘を通す事に恥ずかしさを感じなくなるのが男。
「なるべく優しくしますけど…」
だって、我慢なんて出来ないくらい、好きな感情が走ってしまう。
「少し乱暴にしてしまったら、すみません」
そう言いながらも、大人な自分を保って居るつもりだったけれど。
「は、い…。宜しく、お願い致します」
姫があまりにも可愛らしい表情を見せるから。
「…それは、反則と云うものですよ」
「え?な、何がでしょう、か…?」
「残念ながら今は教えて差し上げる暇がありません」
そんな暇も余裕も無い。
逃げの高坂と云う名称も今日で返上かも知れない、今は向う見ずな追い込み姿勢になってしまって居る。
「高坂様…?」
「後で、気が向いたら御教えしますから、今は…ね?」
しーっ、と姫の唇に人差し指を当てる。
姫は顔を真っ赤にして、頷いて、それから。
「…最後に一つだけ、言っておいても良いでしょうか」
「なんです?」
「高坂様に似ていると思った蝶、あれは、瑠璃立羽ですよ」
にっこり笑って、そう言った。
「…成程。それで、姫は捕獲に成功した、と云う訳ですね」
「そうだとしたら、幸せな事です」
「そうに決まってるじゃないですか、ほら、」
その身体に圧し掛かるように、白い首筋に顔を埋める。
「私は姫と云う花に夢中になった蝶です。何処へも飛び立ったりしませんよ」
瑠璃立羽、特に捕まえる事の難しい蝶。
麗しい羽根を開いては人を魅了し、決して誰の手にも治まらず素早く飛び回っては大樹の陰に擬態する。
厳しい冬の寒ささえ成虫の姿で乗り切る孤高の蝶。
そんな用心深い蝶でも、甘い花の香りに酔う日が来るのだろう。
私にとって大樹は信玄公、甘く香る花は貴女、姫。
どんな女子の誘いも断って来た私が、居心地の良い大樹の陰から出て貴女に魅了された。貴女だけに、この身も心も捧げると誓う。
「私はもう、姫の蜜を吸わなければ生きて行けなくなってしまいましたからね」
芳しい大輪の花と麗しい気紛れな蝶。ぴったりな関係だとは思いませんか?
「誰にも見せた事の無い貴女を…誰も吸った事の無い蜜を、私に下さい」
私も、誰にも見せた事の無い羽根の模様を貴女に見せるから。
今宵は月明かりの下、ただ一輪のと逆ハ蝶の蜜月に酔い痴れて、乱れて。
了
***
逆ハ蝶と書いて「たてはちょう」と読みます。
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