愛する貴女へ


慶次殿の屋敷に、茶の湯に誘われた日。
茶器を片付けて来る、と慶次殿が席を外した後、私はただぼんやりと差し込む西陽を眺めて居た。
庭の松が茜色に染められてとても美しい。
美しい、筈なのに、心は動かされない。
以前なら、何か思う事があった筈なのに。
何の感動も沸かない…抜殻のようにただ、ぼんやりと風景を目に映して居るだけ。

「兼続」
「………」
「おい、兼続」
「………」
「兼続っ!」
「――っえ、あ、はい?どうしました?」
「どうしたじゃねぇだろ、ずっと呼んでたんだぜ?」

気付けば、眉間に皺を寄せて此方を見る慶次殿が目の前に居た。
すみませんと頭を下げると、今度は溜息を零されてしまった。

「別に、怒ってる訳じゃねぇよ。ただ、最近ずっとその調子だろ…こないだ、指示書の内容も間違ってたぞ」
「え、本当ですか…私は本当に抜けて居ますね…すみません」
「だから、怒ってる訳じゃねぇんだって。普段クソ真面目なお前が失敗なんかやらかすと、面白ぇけどよ…」
「………」

解って居る。慶次殿は、私に気を遣ってくれて居るのだ。
もう間も無くに、船殿との婚儀を控えた私の事を。
解って居て、私は心配しないで下さいと言う事さえ出来ない。
もう平気ですから、などとは嘘でも言えそうにないから。
未だに御柳の情報を聞くだけで涙が出そうになる程、弱い心。
こんなにも泣き虫では無かった筈なのに。

「…慶次殿。神は、何故人を惑わせるのでしょうか」
「惑わせる?」

沈黙が重く、そう訊ねると、慶次殿は戸惑った様に聞き返した。
無理も無い。
自分でも、突然何を言い出すのかと思って居る。

「最近、瞬きする事すら怖いのです。瞼の裏には何時もあの人の姿が見えて、でも、開くと其処には居なくて」

船殿と会話をする時も、瞬きの度に姫を見て、船殿への罪悪感が強く沸き上がる。
そう、いけない事だと解って、罪の意識を感じて居る。
それでも、それ以上に強く沸き上がるのは姫への慕情。

「現実に其処に居ないなら、手に入らないなら、何故幻影を見せるのでしょうか」

私の呟きに、慶次殿は困った顔をする。

「…それは、神様の所為にすんなよ」
「はは、そうですね」

笑うと、慶次殿は益々困った顔をした。
全く私は野暮だと思う。
私の事を心配してくれている慶次殿に訳の解らない愚痴を零して、困らせるなんて。
姫もこうだったのだろうか。
私の一方的な恋情に、困って居たのだろうか。

「私は今迄、愛とは無条件で素晴らしいものだと思って居ました。でも、それは違うのですね」

誰かを愛する事が素晴らしい事なのだと思って居た。
けれど実際には、愛は双方の想いが無ければ何の効力も無いもので。

「一方的に想い過ぎては、傷付け苦しめるだけです。姫の事も…船殿の事も…」
「…そりゃ、おあいこなんじゃねぇか?」
「おあいこ?」
「だって、そうだろ」

首をかしげる私に、慶次殿は人差し指を突き付ける。

「お前は姫を想ってる。その状態で船殿に想われたら、罪悪感沸くわな」
「はい…」
「でも、そこで船殿がお前を好いてなかったらどうだ?片恋の苦しみだけで済んだだろ。つまり、船殿もお前を想う事でお前を苦しめてるのさ」
「それは…我儘な考えでは」
「恋心なんて、みんな我儘なもんだろ」

慶次殿はふっと笑った。
その表情は何処か寂し気で、そういえば慶次殿も前田本家の奥方と噂があったな…と思い出す。
想えば想うだけ、苦しめてしまうのに止められない。
それが恋と云うものなのだろうか。
けれどそのまま恋として抱き続けるなら、それで良いとしても…愛へと変えるべき時がきたなら、人は身を引くのだろう。
慶次殿が前田家から離れ、謙信様に仕えて居る現状が何よりの証拠だと思う。
ただ幸せになって欲しいと、慶次殿もそう願ったに違いない。
焼け付く恋情を大きな愛に変えて、堪えて此処まで来たのだろう。

「ま、それでお前が悩んじまうなら、精一杯船殿の良い旦那になるしか無ぇんじゃねえか?」
「そう、ですね…」
「忘れるなんてのは無理だ。でも、大事な思い出として温めるだけなら…誰も傷付かずに済むと思うぜ」
「そうでしょう、か」
「ああ、多分、な」

そっと目を閉じてみる。
陽光の透ける橙色の瞼の中には、私に笑い掛けてくれる姫が居る。
想いを馳せれば、最後に手を握った日の事が鮮明に蘇った。



、姫……』
『兼続様、じっとして。御無理はいけません』

守りたいのに、何も出来なかった私。
熱に浮かされて、傷の痛みの中で、必死に貴女に手を伸ばした。

『私は、ただ、貴女が…』

私のような人間が幾ら格好付けた言葉を探しても、貴女に捧げるに相応しい言葉など見付けられなくて。

姫の事が、とてもとても、好きでした』

せめて精一杯の笑顔で言えたなら、少しだけでも良い男に見えるでしょうか?
縋らずにその手を離せたら、貴女の中で嫌な思い出にはならないでしょうか?

『兼続様……』

困ったように、貴女は笑って。
やはり困らせて居ただけなのかも知れないけれど。

『もう、御休み下さい』

私の瞼を下ろした貴女の手は、僅かに震えて居て。

姫……側に居てくれて、有難う…』

眠りに落ちる間際、腕に熱い雫が落ちたように感じて。

もしかしたら、貴女も私を想ってくれて居たのでしょうか?
だとすれば、私の想いは余計に貴女を苦しめた事でしょうね。
御柳の嫡子として責任のある貴女。私に許嫁の居る事を知って居た貴女。



姫……」

また、涙が流れてしまった。

「どうして、出会ってしまったのでしょうか…」

宿命に翻弄されて、傷付け合う為だけに出会うなんて、そんな残酷な定命だったなんて。

「…じゃあ、お前、出会わなくても良かったか?」

慶次殿は私の涙を見ないように、わざとそっぽを向いて言う。

「それは…」
「そう言われたら、会わせちまった俺の責任だ。冗談抜きで償いはするぜ。でもよ、」

普段ならとても大きい慶次殿の背中は、何故だか小さく見える。

「本当の愛を知って、良かったとは思わねぇか?だから…思い出の中だけでも幸せに居られたら、それで良いと、思うんだ」

何処か自分に言い聞かせるような、ゆっくりとした口調だった。
慶次殿も同じ。
苦しむだけの愛でも、一生一度の愛を捨てる事は出来ない。

「そう、ですね。出会った事まで、後悔したくは無いから…」

私ももっと、強くなろう。
姫への愛を、誇りに想えるようになるまで。
大事なものとして仕舞って、船殿の夫として責任を持てるようになるまで。
そして姫が、私の所為で苦しんだ心から解放されるようになるまで。
その日までずっと、祈り続けよう。

「どうか、姫が幸せになれますように」

沈み行く太陽に手を合わせ、小さく呟いた。

貴女が二度と、傷付く恋をしないように。
貴女が幸せに笑って居てくれるなら、私もまた頑張って行けそうな気がするから。
どうか、どうかきっと幸せになって、あの優しい笑顔を何時も浮かべて居て下さい。

「…なあ、兼続」
「はい」
「祈りには神様がつきものだよな」
「はい、そうですね」
「なら、やっぱ御神酒も要るんじゃねぇか?」

振り向いた慶次殿は笑って居たけれど。

「…そうですね。神事に御神酒は必需品です」
「だよな!よっしゃ、今夜は飲み明かそうぜ!傷心にゃパーっと飲むに限るってな!」

その瞳は、差し込む陽光以外のもので滲んで居たから。

「はい、そうしましょう!」

出来るだけ明るく頷いて、私も笑顔を浮かべた。



姫、私は貴女を生涯忘れられません。
でも、貴女の負担にならないよう、頑張るから。
大切な想い出として、時々取り出す事は赦して貰えますか?
だって、私より強い慶次殿でさえ、過去の恋に涙をみせるんですよ。
だから、今夜だけ思い切り泣いても良いですよね。
私の初恋の姫君。
貴女の幸せの為の祝杯を、涙と共に飲み干しましょう。
愛する貴女へ、やっぱり恰好は付かないけれど、精一杯の笑顔で祈ります。


(どうか、ただ幸せに)



















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