好きな味は
謙信様は御酒ばかり召し上がる。
兼続様が何時も怒ってらっしゃるけれど、本当に米や野菜、肉も魚も殆ど御口になさらない。
それでも剣の腕は凄いし、執務もきっちりと…時々御昼寝を挟みながらも、ちゃんと終わらせている。
御酒だけであの体力は何処から来ているのか、不思議な程。
「謙信様、また御酒ですか?」
「うん。ほら、今日は月が綺麗だからね。月見酒」
「昨日も一昨日も飲んでいらしたではないですか」
「うーん…昨日も一昨日も、月が綺麗だったんだよ」
「昨日は雨でしたよ」
「じゃあ、雨見酒だったんだよ」
少し控えて下さいと言っても、毎晩こうして梅干をつまみに飲んでいらっしゃる。
これでは本当に御身体を壊してしまわれそう。
「謙信様、はぐらかさないで下さい」
「まで兼続みたいな事言わないでよ。美しい風景には、美味い酒が最高に合うんだから飲まなくちゃ」
「謙信様!」
空けた盃に新しく注ごうとした、その徳利を奪い取る。
私も兼続様も、謙信様の御身体を心配して言っているのに、全く聞き入れて下さらない。
こうなったらもう強硬手段しか無い。
「ああっ、返してよ〜」
「駄目です。これ以上は、御身体に障ります」
「具合が悪くなったらやめるから」
「何かあってからでは遅いのです!」
「限界くらい自分で解ってるよ」
「病とは気付かずに身体を蝕むものなのですよ!」
押し問答が続く。
と、じっと徳利を見詰めて居た謙信様が不意に御顔を上げた。
「は…私の言葉を信じてくれないのかな?」
「そういう訳では、ありませんが…」
「だって今、信じてくれてないじゃない。私が大丈夫だって言ってるのに」
拗ねたような御顔が可愛らしくてつい心が動かされそうになるけれど、此処で引く訳にはいかない。
これは謙信様の為、自分の胸が痛んでも堪えなければならないところ。
「良いですか、謙信様。きちんと御食事もして下さっているのなら、お酒も良いのですよ」
「食べてるよ。ほら、梅干」
「それは御食事とは言いません」
「食べてるんだから食事じゃない?」
こういう話になってくると、言葉では謙信様に敵わない。
私が幾ら必死に頭を働かせたところで、人生経験も知識も全く及ばない御相手。
「……解りました。そうまで仰るなら、この御酒はお返し致しましょう」
「あ、解ってくれた!流石私のだね!」
今無理矢理取り上げても、明日にはまた飲んでしまわれる。
話し合いではどうにもなりそうにない。でも引く訳にはいかない。
「但し」
嬉しそうに徳利を受け取る謙信様に、私は最後の手段に出る事にした。
「私も御一緒させて頂きます」
「え?」
謙信様は驚いた御顔をされる。
私があまり飲めないのは既に御存じの事。
「うん…、付き合ってくれるなんて珍しいから嬉しいけど。無理はいけないよ」
「大丈夫です。さ、飲みましょう」
「うん……?」
訝し気な謙信様に微笑み掛け、侍女にもう一つ盃を用意して貰う。
不安はあるけれど、やれるだけやるしかない。
これで謙信様が解って下さるなら、一度の恥など思いきるべき、と気合を入れた。
「ね、ねえ、大丈夫?」
「大丈夫ですよ?」
半刻後。
「そろそろやめた方が良いよ、もう普段の倍以上飲んでるし…」
「大丈夫です。私の言葉を信じて下さらないのですか?」
「いや、そうじゃないけど…」
私はとっくに限界を超えた量の御酒を流し込んで居た。
謙信様は日本酒ばかり御飲みになる。
日本酒は他の御酒よりも回るのが遅いから、飲む時は注意が必要。
そんな事は勿論知って居る。多分、明日は酷い頭痛と吐き気が一日中続くだろう。
いや、吐き気ならもう暫くすれば波が来そうな予感もしている。
「ふう、美味しいですね」
「ま、まだ飲むの?」
「ええ、私は大丈夫ですから」
それでもやめない。
私が飲む間、謙信様は心配そうな御顔で手を止めていらっしゃる。つまりその間は御酒を口にしていない。
それも酒量を減らすと云う目的には良い効果であるし、この奥の手の何よりの効果は私が苦しい程飲む事だから。
「本当に梅干は御酒に合いますね」
「う、うん……」
見て、解って欲しい。
まるで水でも飲むかのように、次々盃を空けて行くところを見て居る側の気持ちを。
「そして梅干には御酒が合いますね」
「うん、うん……、」
「そしてまた梅干、御酒、梅干、御酒。これでは確かに止まりませんね」
「ねえ、、」
「私なら大丈夫ですよ?謙信様程は飲めないかも知れませんが、これで身体を壊したりはしませんから」
そう、これだけでいきなり病気にはならない。
でも心配になるでしょう?
私の場合は弱いから、病気でなくとも具合は悪くなる。謙信様は明日も平気かも知れないけれど、でも解るでしょう?
「………、ごめん」
遂に謙信様は、徳利も盃も手から離して項垂れた。
「解ったよ。確かに、浴びる程酒を飲んでる姿は、見てて心配になる」
「なら、これらからは控えて下さいますか?」
既に眩暈のする視界で謙信様を見詰めると、謙信様は素直にうん、と頷いて下さった。
「これからは出来るだけ御飯も食べるようにする。だから、もう、無理しないで」
大丈夫とは言っていたけれど、本当はとっくに限界だった私だ。
ほっとした気持ちで盃を置く――置こうとしたら、視界が揺れていた所為で倒してしまった。
「あ、」
「、本当はかなりきついんだね?」
「……はい」
「もう、無理するから……まあ、私が怒れた事じゃないんだけど…」
謙信様は困った御顔で私を抱き上げる。
「け、謙信様?」
「それじゃ歩けないでしょ。室まで運ぶから、楽にしてて良いよ」
「すみません…」
御言葉に甘えるしか出来ない私は、ぐったりと謙信様の腕に身を任せた。
これじゃきっと重い。それに、今の私はきっとかなり御酒臭い筈。
愛する人にこんな姿を見られるのは恥ずかしいを通り越して凄く辛いけれど、これで謙信様が健康に気を使って下さるなら…良かった……
「全く、私のは可愛過ぎるね」
すっかり酔い潰れたを布団の上に降ろし、傍らに座る謙信。
「こんなに愛されたら、嫌でも味覚が変わってしまうよ」
長年、濃い味の塩気が強いものが好きだった。
甘いものはどちらかと言えば苦手で、避けていたのに。
「君がくれる甘い感情は酒には合わない。そして今の私は、酒より君の愛の方が断然好きなんだ」
そっと重ねた唇は、今は互いに酒の香りがするけれど。
それがいずれ甘く変わる日まで、が心配していた程の時間は掛からないだろう。
了
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