夢に描いた形
例えば、努力もしないで夢ばかり見るのは間違ってると思うけどね。
私はこれまで沢山頑張ったんだから、夢のような暮らしをするのは御褒美なんじゃないかな。
そんな毎日を守る為の努力も必要だけど、今くらいはさ。
ちょっと我儘言ったりだらだらしたり、そんな時間だって必要な筈でしょ。
「謙信様!人参!」
「だから。要らない」
何時も通りのやりとり。
大抵の場合は此処で宇佐美が横から食べてしまうのだが、この日は違った。
腹痛がするとかで食事量を減らして居る彼が、謙信の分まで食べられる筈が無い。
兼続もそれを解って居るだけに中々引き下がろうとはしなかった。
「良いですか、謙信様!ちゃんと食べて下さらないと、栄養失調で早死にしてしまうかも知れませんよ?」
「私がを置いて死ぬ訳無いでしょ」
「御病気になられるかも知れないでしょう」
「もし病に倒れたとして、が看病してくれればすぐ治るよ」
「世の中、そんなに上手く行くとは限らないのですよ!姫の事が大切なら、ちゃんと食べて下さい、さあ!」
御丁寧に箸で摘み、口元へと差し出す兼続。
それでも謙信は苦い顔で横を向く。
意地でも食べない、と云うその態度に、兼続は溜息を吐いて作戦を変えた。
「謙信様。こんな人参一つも食べられないなんて、格好悪いですよ?」
言いながら、ちらりとの方へ視線を向ける。
「そんなに駄々っ子のようにして居られては、姫も呆れてしまうかも」
「何を言い出すかと思えば…は私が人参嫌いな事くらいよく解ってるよ」
「謙信様の好き嫌いは常軌を逸して居ます!そのうち姫だって謙信様ったら情けないわ、と思うかも知れませんよ!」
「ないない。私達はちゃんとお互いを理解してるからね」
謙信がを見れば、彼女は小さく笑って頷いた。
その顔には確かに少しの呆れが見えるが、それはどちらかと云うと日々食い下がる兼続へ向けてのものだ。
「そうやって甘えて居ると逃げられてしまいますよっ?」
「だから、私達は大丈夫だって。ほら、お前の大好きな愛で結ばれてるからね」
「愛は確かに偉大ですが、それに頼り過ぎてはいけません。先程も申し上げたように、世の中はそんなに上手くばかり参りません」
「うーん……」
主君である謙信は、何が何でも要らないと言ってしまえばそれで勝ちだ。
だが兼続の本心からの心配と解って居る以上無下には出来無かった。
本音を言うならば、大半はその必死な様子が見て居て面白いから不毛な議論を続けるのであるが。
「別に、夢みたいに上手く行く幸せだけの毎日でも良いんじゃない?」
「な、何ですかそれは」
「好きな事だけして生きていったって良いじゃない」
織田も人生五十年って言ってたし、あっと云う間なんだから…と謙信はをじっと見つめる。
「だって願う事くらいは自由でしょ。一日中と×△○×□とか☆○△とかして…」
「けっ謙信様っ!!」
「謙信様っ!?」
兼続とがほぼ同時に叫んで立ち上がる。
二人は顔を真っ赤に染め、謙信は涼しい顔、他の皆はやれやれと言った空気で見ぬ振りを通す。
「それもありじゃない?今迄頑張ったんだから、新婚の時くらい夢に描いた毎日送らせてよ」
「で、ですが、そのっ!その幸せを守る為にも、人参は…」
「好きな事だけする期間も欲しいの。じゃないと逆に、我慢ばかりで身体を壊しそうだ」
常ならばもう少し押し問答を続ける意地のある兼続も、先程の×△な話題が利いたのかもごもごと口籠って居る。
こうなってしまえば謙信の勝利は確定事項で、整った微笑は満足気に箸を置いた。
「と云う訳で、ごちそうさま。私の食事はもう終わったからね」
「ああっ、謙信様!駄目ですよ、そんな勝手に…!」
「食後に受け付けるのは酒とだけだから。その人参はお前が食べなさい」
「狡いですよ謙信様ーっ!!」
騒ぐ兼続を尻目に立ち上がり、に向けておいで、と手招く。
これからは言い訳の時間だ。
皆の前で○□×云々と言ってしまった事を、愛しの妻に弁明しなければならない。
それは決して目先の人参から逃げる為の理由として挙げたのでは無く、謙信の本心であると云う事を伝える大事な一時だ。
誰にも邪魔されず愛妻と一日中過ごすと云うのは、叶うなら今日からでも叶えたい夢なのだから。
「、怒ってる?」
二人切りになった途端、神妙な顔でに問う謙信。
軍神が妻の機嫌を一番に畏れるとは傍から見れば滑稽かも知れないが、何にも変えられぬ愛しい人の機嫌とは重大なものだ。
「怒っては、居ませんが…その、恥ずかしいではないですか……」
「ごめんね。でも、私は本当にそうやって過ごしたいんだよ」
「そ、それは…」
「夢のような幸せを漸く手に入れたんだから。暫くはその夢に浸りたいと思っても、許して欲しいな」
甲斐との長年の競り合いで国は荒れて居た。
それに加え、が御柳の跡目である事は高い壁となって二人の仲を阻んだ。
関東管領としての立場は、謙信自身の損得だけではどうにもならない。上杉家から受け継いだ事への責任もある。
もまた恋情だけでは動けぬ立場であれば、二人の恋路は絶望的なものに思えて居た。
それが全て上手く運び結ばれた現在は、本当に夢のような奇跡と言える。
勿論現在の平和に至るまでの謙信の努力は並々ならぬものであり、故に得られた幸福への想いは本当に強い。
その事をよく解って居るが怒るなど、ある筈も無く。
「皆の前で無ければ…そう思って下さるのは嬉しいです。私も…謙信様と共に過ごせる今の暮らしは、夢のようですから」
頬を染めながらも、口から出るのは同じ気持ち。
「、大好きだよ!」
「きゃ、謙信様…!」
未だ夜には遠い。けれど沸き上がった愛しさを止める術など謙信は知らなかった。
例えそんな方法があったとして、今の謙信が我慢などしなかっただろうが。
「あんまり好きな事ばかりしてる我儘な私を見たら、は呆れてしまうかも知れないけど…私の本心は何時でも知って居て欲しいからね」
「け、謙信様…ですが、その、」
「何時でも触れ合って居たいと思う私は嫌い?」
「…どんな、謙信様も……好き、です」
俯きがちに零される言葉は承諾の合図。
笑みを深めた謙信がの首筋に顔を埋めれば、もう彼女からは抵抗する素振りさえ見られなかった。
「私も、どんなも、全てが大好きだよ」
人参ぐらい食べられなくたって、私はこの可愛いの為に長生きしてみせるよ。
それにどんなに格好付けて過ごしてみたって、にはきっと見抜かれてしまうし。
大体が素直に接してくれてるんだから、私だってありのままで良いんじゃないかな。
見栄なんて下らないものだよ。
誰かが決めた格好良さより、皆が求める素敵さより、が認めてくれる私で居たいから。
こうやって笑い合って抱き締め合って、夢のような幸せを続けて行きたいな。
後日。
「…兼続。何、これ」
「人参で姫の姿を彫らせました!どうですか、謙信様の大好きな姫ですよ?さあ、食べて下さい!」
「何か卑猥だよね、その表現」
「な!?わ、私は決してそのようなつもりでは…!!」
「嫌だなあ、兼続がそんな事を言うなんて思ってもみなかった」
「そ、その、これは違います!あああ、誤解です、誤解ですぅ!!」
やはり謙信には敵わない兼続と、それを笑って見守るの、変わらぬ幸せな風景があった。
了
戻る