明日より早く


「はぁ……」

溜息を一つ。
と、隣の小次郎からもっと大きな溜息が返って来た。

「最近、一体どうしたんだ。ずっと溜息ばかりだぞ」
「え…そうでしたか?すみません」
「謝らなくて良いから、何があったのか話したらどうだ」
「いえ…その……」

少し躊躇ったけれど、小次郎はじっと私を見詰めて居る。
話さなければ納得しない、といった感じだ。
その無言の威圧感に負けて、私はおずおずと口を開いた。

「実は…」

誰かに聞かれては困る事なので、小声で経緯を話す。
全てを聞き終わった後、小次郎はもう一度大きな溜息を吐いた。

「…成程な。確かに厄介だが…君が気にする事じゃ無いだろう」
「ですが、このままでは謙信様にもご迷惑を掛けてしまいます」
「謙信さんにとっては、君が落ち込んで居る方が辛いんじゃないか?」

そうは言われても、これは個人の感情でどうにかなるものではない。
私の口からも再び溜息が零れそうになったその時、からりと襖が開いた。

「あ、今何か大事な話してた?」

丁度話題に上がったその人が顔を覗かせる。

「いや。大した話じゃない」
「そう、なら良かった。、ちょっと来てくれる?付き合って欲しいんだけど」
「…はい、解りました」

無邪気な表情を見ると胸が苦しくなるけれど、でも小次郎の言う通り。
謙信様の前で落ち込んで居ても余計にご迷惑なだけ。
私は気持ちを切り替えて、謙信様の後に続いた。

「こっちこっち」

謙信様が向かったのは、中庭の片隅にある古ぼけた井戸だった。
使って居る所を見た事が無いそれは、恐らく枯れ井戸なのだと思う。
こんな所に、一体何の用があるのだろうか。

「今、誰も居ないよね?」
「はい、人影は見当たりませんが…」

辺りをきょろきょろと見回してから、謙信様はそっと井戸蓋を持ち上げる。

「静かにね、私が先に降りるから、付いて来て」
「え?あ、謙信様…!」

ひょい、と井戸をまたいで飛び込む謙信様。
枯れ井戸に飛び込んだりしたら怪我をしてしまう、と慌てて覗き込むと、思いの外近い距離にその御姿はあった。

「驚いた?此処、隠し通路なんだよ。もおいで。受け止めてあげるから」
「は、はい…」

それでもそれなりの高さがある其処へ飛び込むのは勇気が必要だったけれど、目を閉じて一息に飛び降りる。
少しの浮遊感の後、ふわ、と謙信様の両腕が包み込んでくれて、私は無事に着地出来た。
どうやら底には枯葉や藁も沢山敷き詰めてあるようで、想像していたような冷たく硬い感触も無い。

「あとは軒猿に蓋を閉めておくよう言っておいたから。此処なら二人切りになれるし、危険も無いから安心して」

謙信様はにっこりと笑って、藁の上に座り込んだ。
手招きで促され私も隣に座る。

「で、折角二人切りになれたんだから。話して欲しいな」
「……え?」
「最近、何か悩んでるんじゃない?人前では言いにくい事でも、此処なら大丈夫だから、聞かせて欲しい」
「謙信様も…」

小次郎だけでなく、謙信様にも気付かれてしまって居た。
驚いてそう呟くと、謙信様は首を傾げる。

「いえ、先程も小次郎にも最近様子が変だと言われたのです。私はそんなに解り易いのでしょうか…」
「小次郎にも、ね…。何か、妬けるね」
「えっ?」
「だって、私だけが気付いたのかと思ってたのに。先に小次郎が気付いたなんて…」

小次郎は何時も側に居るからすぐに気付けてずるいよね、と謙信様は拗ねたように言う。
そんな所が可愛らしくて、思わず少し笑ってしまった。

「あ、良いね。その笑顔」

私を見て、謙信様も微笑まれる。

「最近あんまり笑ってる姿を見られなかったから、嬉しいよ」
「…そんなに、深刻な顔をして居たでしょうか」
「うん。他の人には解らないかも知れない違いだったけど、ずっと元気が無かったし気になってたんだよね」
「謙信様は、何でもお見通しなのですね…」
「何でも、って事は無いよ、他ならぬの事だから…。良ければ、話して欲しいな」

他ならぬ、と云うその言葉に、深い思い遣りが溢れて居るようで。
決して強要する訳では無く、優しい瞳と声で包みこんでくれるような謙信様に、私は覚悟を決めた。

「実は……」

謙信様の御耳に入れては、余計な負担を掛けてしまうと思って黙って居た事。

「景勝様を擁立する方々に言われたのです。私が謙信様に嫁ぐような事になれば、景勝様のお立場が悪くなると…」

謙信様に実子――それも男児が出来れば、養子である景勝様は跡目ではなくなってしまう。
私は少し前から、それを不満に思う勢力に身を引くべきだと言われて居たのだ。

「成程ね。そんな下らない事で君を悩ませるなんて…後でちょっとお仕置きしとかないといけないね、あの辺には」
「け、謙信様?穏便になさって下さいね…?」
「うんうん、大丈夫だよ。私は優しいから」

笑顔なのだけれど、目が確実に笑って居ない。これは酷く怒って居るのだろう。
少し怖くも感じるけれど、それが私を想っての事と解るから、不謹慎ながら嬉しく思えた。

「大体、私が景勝を急に放り出したりすると思ってるって所が気に入らないな。あの子は私の息子だと思ってるのに」

謙信様は景勝様の事をとても可愛がっていらっしゃるし、景勝様は謙信様の事をとても尊敬していらっしゃる。
実の親子と言っても良い程に良い関係なのは、誰が見ても認めるだろう。

「ですが、お世継ぎの事となればまた話は別ですから…」
「あっちにはあっちの思惑があるのも解るけどね。私は、そんな事に拘りたくない」

謙信様の御顔から急に笑みが消える。
真面目な表情で私の手を取り、何か考えながらのようにゆっくりと言葉を紡がれた。

「ねえ、。私はね、息子が生まれても、景勝を第一子として扱う事を変えたくない。君は嫌かな?」
「謙信様……」

御家の争いで辛い想いを沢山されて来た謙信様。
御自分の子の世代では、そんな想いをさせたくないのだろう。
それは私も同じ気持ちだ。
そんな事で争って、傷付いて…悲しみが増えるなんて、嫌だから。

「…私は、ちっとも構いません。家族とは、打算など抜きで幸せに暮らすものだと思って居ます」

皆で笑い合って、身分や立場や血の繋がりや、そんなものを気にせずに明るく暮らしたい。
それが私の思う幸せであるし、それで謙信様も幸せに感じて下さるなら、もっと幸せは大きくなる。

「有難う、

優しい笑顔。
この素敵な笑顔を守る為なら、身を引こうかと思って居たけれど。

「君にその覚悟があるなら…私の御嫁さんになってくれないかな?」

私でもお役に立てるなら、謙信様の幸せの一つになれるなら。

「…はい、私で宜しければ」

迷わずその手を取ってついて行こう。
まだまだ問題は山積みで、未来の事はどうなるか解らないけれど。
小国の一人娘であると云う私の背景を気にせず私を想って下さった謙信様のように、私もただこの愛情をお返ししたい。

「私の御嫁さんは、しかいないよ」

ぎゅっと抱き締めて下さる腕の温かさに、幸せ過ぎて涙が出そうになってしまった。
慌てて堪えて目を閉じると、これまでの事が瞼に浮かんだ。
まるで御伽噺のようだと思う。
突然旅に出る事になって、謙信様と出会って。
素性も隠して居た私などを丁重に扱って下さって、初めの頃からまるで家族のように分け隔てなく接して下さった。
そして今、この上ない幸せを頂けるなんて、本当に夢のよう。

「私には関東管領として、厄介な事も付いて回る。今回のように、を悩ませる出来事もあるかも知れない」

君の実家の事もあるし、と謙信様は少し困った笑みを浮かべる。
確かに私が幾ら嫡子を次男の地位で構わないと言っても、父上が納得されるかは解らない事だ。
それに、景勝様派の方々がそれを信じて納得してくれるかも解らない。

「でも、私は必ずを守ってみせる。明日の事は解らなくても、先回りしてだって君に襲い掛かる辛い事を止めてみせる、絶対に傷付けたりしない」
「ふふ、先回りですか?それは大変そうですね」
「私なら出来ると思うよ。だって、軍神って言われてるんだからね。神ってつくんだよ、大切な君の為なら何だって出来そうじゃない?」

謙信様はにっこりと笑って、私を抱き締める腕に力を込めた。

「私は、明日より早くを迎えに行く。しっかり抱き締めて、守ってあげるから」

――だから、ずっと二人は一緒だよ。

温かい腕の中で、誓うように紡がれた言葉。
優しく深い愛が、耳から全身へ伝わって行く。

「謙信、様……」

幸せで、幸せで。
今度こそ私は、涙を堪える事が出来無かった。



(私は本気だよ?明日になんか負けない。幾度季節が巡ってもこうして…何処までも、何時までも一緒に行こうね。必ず君を、守り抜いてみせるから)








戻る