輪廻
「様、此方は如何致しましょう」
「ああ…今日中に目を通しておきます」
「様、隣国との同盟の件ですが」
「それなら先日纏めておきました」
城主と云うのは忙しい。
忙しいだけでなく、酷く孤独だ。
「はあ…疲れた…」
手の空いた僅かな間に見上げる空は広く果てない。
あの下を自由に旅して居た頃など、今ではまるで夢のよう。
何時戦が起こるとも解らぬ中での慣れぬ旅路は、辛い事も沢山あった。
けれど孤独を感じずに済んだのは、やはり彼が側に居てくれたからだろう。
「様、お疲れですか」
「…小次郎」
側に、と云うなら今も居てくれるけれど。
父上の目があるからか、私が城主と云う立場になったからか。
彼は以前の様に気さくに接してはくれない。
「大丈夫です。父上は何年も執務をこなしながら戦にも赴かれて居たのですから…私も頑張らなくては」
「ですが、あまり御無理は」
「本当に大丈夫ですよ。小次郎の心配性は、何年経っても治りませんね」
「それは様が何年経っても危なっかしいからですよ」
「まあ、自分ではもう随分しっかりしたと思って居るのに」
笑い合う。
きっと、これだけでも幸せなのだ。
身分が違うから結ばれない。けれど、違うからこそ共に暮らす事が出来た。
もし小次郎が心配して居たように政宗様に恋などしていたら、きっと二度と会う事も叶わぬ関係だっただろう。
これだけでも幸せだと、そう納得しようとしていたのに。
「失礼致します――様、御父上が御呼びです」
「あ、はい。今行きます」
それさえも奪われる日が来るとは。
それがこうも早いとは、運命とは何故残酷な未来ばかりを見せるのだろうか。
「父上、です」
「おお、入りなさい」
「はい」
此処最近病状が悪化された父上は、起き上がる事さえ難しい。
侍女に背を支えられどうにか半身を起こす姿は弱々しいものだった。
「私の病がもう…手の打ちようが無い事は、知って居るな」
「父上…」
「そんな顔をしないでおくれ。自分でも先が長く無いとは解って居る。だから…」
其処で一旦言葉を切り、人払いを、と小さく呟く。
嫌な、予感がした。
「…重大な、お話なのでしょうか」
二人切りの室内で父上と向き合う。
長年育ててくれた父。大好きな父。それは変わらない。
けれど、もし、その願いが私の不幸であったら。
私は受け止める事が出来るだろうか。
「お前が全ての縁談を断って居ると聞いた。養子を取る気で居るとも」
「………」
嫌な予感が濃くなる。
どうか、その話だけは止めて欲しい。
「この命は最早尽きる寸前だ。どうか…どうか、その前に私を安心させておくれ」
「父上…」
「どうか御柳の血筋を守ってくれないか。孫の顔も見ずに死ぬのは辛い…どうか、頼む、この通りだ」
「ち、父上!いけません、」
力の入らぬ身体で頭を下げる父上。
娘の私に頭を下げてまで、この家を守りたいのだ。
その気持ちは解る、解るけれど私にも守りたいものがある。
「私はまだ今城主としての働きも不十分で…誰かの妻になるなど、心構えがなっておりません」
出任せの言い訳でもこの場を乗り切りたい。
その思いも虚しく、父上はゆるゆると首を振った。
「。お前に怒られる事は覚悟の上だ。実はもう…縁談を決めて来た」
「な…、」
「私の父の代からの同盟国の次男、信頼出来る相手で人柄も問題無い」
何も、言葉が出なかった。
父上が決めた婚姻。それは絶対の決定事項。
本来ならばもっと早い段階で決められて居るものだ。私は恵まれて居たのだとは解って居る。
我儘を甘受して貰って居ただけで、他の姫であれば城主に就任する際に婿養子を取るのが普通の事。
これが普通、とは解っても。
幾ら頭では解っても、心がそれを拒否する。
「日取りももう年末にと決まった。近々、皆にも私から公表するつもりだ」
「年末……」
「、急で戸惑うのは解るが、どうか聞き分けておくれ。孫をこの手で抱くのが夢なのだ」
涙ながらにもう一度頼む、と頭を下げられては、私に反駁する余地など無かった。
それから暫く、私の婚儀が決まった事は城内城下皆が知る所となり。
「様、おめでとうございます」
「本当におめでたい事ですね」
「御父上も一安心でしょう」
顔を合わせる人々全てに祝辞を受けながら、私の気持ちは日毎重く沈んだ。
「…様、御結婚がお決まりになったとか」
「ええ。遂に私も、身を固めなければならないようです」
何より小次郎と顔を合わせる事が辛かった。
平常通りに振舞う小次郎。
昔の私なら、彼は何も気にして居ないと悩んだかも知れない。
いっそそんな悩みの方が気は楽だったろう。
今は、それが彼の精一杯の虚勢なのだと解る。
失う辛さを嫌と云う程知って居る彼だから、悲しみを抑える為必死で何でも無い顔をして見せるのだ。
あの日、国に戻ったあの夜、共に逃げてしまえば良かった?
今更何も変わらないけれど。
後悔だけがこの胸を押し潰しそうに膨れて、相談する人も居ない。
「おめでたい、事だと思います」
「本当に…そう思って居ますか?」
私は国と結婚するのだ。顔も知らぬ人、その人と結婚する訳では無い。
愛する人は生涯ただ一人、小次郎だけ。
「はい。本当に…喜ばしいと…」
「…そう、ですか」
届けたい想いを口にする事も出来ず。
空回るばかりの関係をどうにかしたいと思っても、この孤独な立場は何かと邪魔をする。
外に出るにも護衛が一人など到底許されず、城内では執務に携わる家臣が側に控え。
厠一つも侍女が傅く身分で、本音を話し合う時間など得られる筈も無かった。
季節は晩夏。
年末など間も無い。
焦る気持ちとは裏腹に時は得られず、擦れ違うだけの日々を過ごした。
「医師はまだか!」
「ともかく薬だ、早く白湯を!」
紅葉の色付く頃、父上は気温の所為か酷く体調を崩された。
それを幸いなどと思ってしまう私は最低な人間だろう。
皆が父上の元へ出払ったのを機に、漸く小次郎と話す機会を手にする事が出来た。
「小次郎、宜しいでしょうか」
「ああ、構わな…はい、どうぞ」
「私に敬語など使わなくても良いのですよ」
「そうは参りません。様は現御柳家御当主…増して、近々人妻になられる御方。護衛に過ぎぬ俺が気安く話し掛けるなど、とても…」
城主と護衛、それだけで良いと思って堪えて来た。
今まではそれで良かったかも知れない。
けれど、これからはそうはいかないと小次郎も解って居る筈。
今言われた通り、私は人妻になる。
誰より愛する人が側に居ながら、別の人と結婚し世継ぎを生む。
生き別れも辛い、でも愛する人がすぐ側に居て結ばれないこの想いも辛くて仕方が無い。
甘えだと言われても何と言われても、辛くて堪らないから。
「私には…もう、耐えられません」
「様?」
同じ夢を見て居た筈なのにどうして叶えられない?
ただ愛する人と平穏に暮らしたいだけ、それだけなのに。
「私は、武家の娘として覚悟は出来て居ます。それでも…」
それでも誰より愛する人に触れて貰う事も叶わず見知らぬ人のものになるなど、耐えられそうに無い。
女子からこんな事、はしたないとは解って居てももう止められないから。
「御願いです、小次郎…一度だけで良いのです」
この想いは何時までだって捨てられない。
何もかも捨ても彼だけを愛していると誓える。
父上への愛と彼への愛は秤に掛けたり出来ないもの、どちらも捨てられないけれど。
「、それは…」
「もう言葉だけでは足りないのです。もう、もう私は…」
余程動揺したのか、小次郎の口調が昔のものに戻る。
それさえも嬉しく思える程、彼と対等に在る事は私にとって唯一の幸福なのだ。
父上の為国の為に結婚する、誰かのものになってしまう。
その前に、一度だけ過ちを犯す事は許されない事では無いと思いたい。
生涯一人愛した人と結ばれないなら、せめてこの身だけでも。
誰かに奪われる前に捧げたいと願うのは許して貰えないだろうか。
「落ち着け、、俺は…俺は、ただの護衛だ」
「言い訳は沢山です、私はこれ以上この想いを堪える事など出来ません」
「それでも俺は…臣下の域を超える事など、出来ない…」
「小次郎、」
「解ってくれ、これが一番お前の為なんだ!」
叫ぶように言う小次郎の手は微かに震えて居る。
ああ、その震える腕に抱いていっそこの息の根を止めて欲しい。
痛みを覚える為だけに生きるなら、無駄な未来など要らない。
今すぐ抱き締めてこの虚勢に塗れた弱い心まで包んで欲しい。
「小次郎…もう、色んな事に縛られるのはやめましょう」
どんな立場身分にあっても、私達はただの人間同士なのだから。
本心を無理に抑えて振舞って見ても、この想いが消える事は無い。
ただ何時までも苦しい思いをするだけだから、一度だけ。
「私は貴方が好きです。今生では結ばれぬ宿命でも、貴方の事が好きなのです」
「俺だって……俺だって、ずっと、」
小次郎が一歩、此方へ踏み出す。
向かい合う私達の間には何時も近くて遠い距離があった。
城主と護衛の見えない壁。
その境界を崩して伸ばされた腕が、私の肩に回る。
「の事だけが好きだった」
耳元に囁かれる言葉、その言葉をどれだけ聞きたかったか。
武家に生まれた事は嘆いても仕方が無い。結ばれぬものもどうしようも無い。
ただ、互いに惹かれ合う想いを知りたかった。形にしたかった。
「小次郎…」
「伝えないつもりだった。君を苦しめるだけになると思って居たから」
「私こそ、小次郎を苦しめたくは無かったです。それでも…もう、この想いは抑え切れません」
宿命から逃れる事は出来ない。
結ばれないのに愛しても苦しいだけ。
でも結局消せない想いに苦しむなら、一度だけ素直になっても良いでしょう?
「、」
そうして降りてくる唇に抵抗する理由など何処にも無く。
目を閉じて受ける温もりは、胸の奥を痛みで染めた。
「後悔しても…知らないからな」
「する筈がありません。私の身も心も、生涯小次郎だけのものなのですから」
「俺も同じだ。なら…」
涙を溜めた瞳。震える掌。
絡む指先で掴む未来が、より深い苦しみへの一歩となっても構わない。
「同じ罪を、背負おう」
普通の恋人同士には有り得ない程に覚悟を決めた目で見つめ合って、ゆっくりと頷く。
もう戻れない道へ進む罪の儀式。
息が止まる程の熱い口付けが、本当にこの命を奪ってくれれば良いのに、と思った。
夏の盛り。
城内は晴れやかな空気に満ちて居た。
昨年に比べると一層弱々しくなってしまった父上も、今日ばかりは笑顔を咲かせて居る。
「、よく頑張ってくれた」
「身体は大丈夫か?」
父上と夫の後ろでは、侍女もまた嬉しげに控えて居た。
「はい、大丈夫です…あ、」
起き上がろうとすると眩暈がした。
よろめいた身体を素早く背後の手が支えてくれる。
「様、御無理はいけません。まだ横になって居られなくては」
「そうですね…すみません、小次郎」
私を見詰める瞳は優しさに溢れて居た。
けれど其処に混ざる少しの翳りは、きっと私の瞳の中にもあるのだろう。
「様も御子も御健康ですよ。おめでとうございます」
私の隣に居た侍女が父上に腕の赤子を見せる。
「早産ではありましたが、この通り立派な男子です」
早産。
皆がそう信じて疑わぬその子が、本当は月を満ちて生まれたと私は知って居る。
私と、小次郎だけが。
「おお、なんと可愛らしい。初孫の愛しさがこれ程とは」
「本当に愛くるしい。私も漸く父親なのだな…」
父上、あなた、ごめんなさい。
でも私は、今何よりも幸せなのです。
城主と云う立場で沢山の夢を捨てました。
愛する人と添い遂げる事も、感情を表す事も許されない。
それでも、愛する人の子をこの手に抱ける。
今はその事だけが、私の救いなのです。
「様、御身体に障ります。もう少し御休み下さい」
「そうですね。何だか身体が重いです」
「俺が御世話致しますから、ごゆっくりと」
「有難う、小次郎…」
大きな裏切り、決して許されない秘密。
それでも全てを埋め尽くせる程に、私は小次郎を愛して居る。
そして彼から貰う愛は何よりも私を満たしてくれるから。
「少し、眠りますね…」
彼の温かい掌を感じながら、罪の意識を闇へ落とした。
了
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