今日が初めて


それはそれは平和な日だった。
平和な日には軒猿の仕事も暇になると云うもの。
屋根の上でだらだらと過ごしながら、佐助は暇潰しとばかり才蔵に話し続けて居た。

「〜でよ、の奴、俺がちょっと花摘んでっただけでも喜ぶんだぜ?単純だよなぁ」
「それは惚気と取れば良いのか」
「なっ、なんでだよ!あいつが単純って話だろ!別に好きだなんて言ってねぇし!」
「お前の方が致命的な迄に単純だな。解り易いにも程がある」

才蔵と言えば迷惑そうに、面倒臭気に佐助をあしらって居るのだが。

「違うって!あいつが…なんだ、何時も馬鹿みたいにぼーっとしてるから、からかうと面白いんだよ」
「お前に馬鹿と言われたらたまらんだろうな」
「いや、だっての奴ほんとに注意力無いんだぜ?あんなんじゃ悪い男に目を付けられたら危ねぇよな」

此処最近、口を開けばの話ばかり。
誰が見てもそれは解り易い恋だと云うのに、当の佐助は認めようとしない。
それでいて延々と彼女の可愛さであったり心配な所であったりを語り続けるのだ。

「幸村とかにさらっと唇奪われたりしたらどうしよう!あいつ初心だし、男相手に警戒ってもんをしないからな…」

大事な初接吻の相手が幸村なんて可哀想だ!とおろおろする姿は、どう言い訳したところでに惚れて居ると解る。
だが本人がそれを認めないからには、幾ら言った所で無意味だ。
かと言ってこれ以上無駄話に付き合う気も無い才蔵は、一撃必殺の撃退法に全てを賭けた。

「佐助。その前に、お前は自分の心配をしろ」
「は?俺は大丈夫だって、男だし」
「そうではなく。お前、既に初めての接吻は済ませて居るぞ」
「ああ?そんな訳無いだろ、嘘吐くなよ!俺が誰とそんな事したって…」
「俺と。」

当然のように言い放たれた言葉。

「――なっ、」

石化した佐助に、才蔵は無表情を崩さず淡々と告げる。

「覚えて居ないのか?お前を拾った日だ。あまりに血塗れで気管も塞がり掛けて居たから、俺が人工呼吸を施した」

拾われた時には生死の境を彷徨って居た佐助だ。記憶は途切れ途切れで、碌に残って居ない。

「う、う、嘘、だろ…」

青い塗料でも被ったかのようにみるみる青ざめて行く顔が実に面白い、とは才蔵が胸の中だけで呟いた事である。

「なんでだよおおおおぉぉ!?」

辺りを揺るがす絶叫に、近くで暇を持て余して居た十勇士達からは口々に非難の声が上がった。

「煩いんだよ猿!」
「黙れ馬鹿猿!」
「喧しいわクソ猿が!」
「静かにしろ駄目猿」

特に近場に居た小介からは撒菱を投げつけられると云う惨事に陥ったが、佐助の動揺は腕に刺さったそれにすら気付かない程。

「何でか、と云うなら…お前が死にそうだったからだろう」
「そんな事聞いてんじゃねぇよ!」
「なら見殺しにすれば良かったか」
「ああもう、うるせぇ!うるせぇよバッカヤロー!!」

涙目で訳の解らない事を怒鳴りつけると、瞬く間にその場を駆け去って行ったのだった。




「ちっくしょう……畜生、俺はどうすりゃ良いんだよ!」

逃げ込んだ空き部屋で膝を抱える佐助。

の唇が誰かに奪われる事を恐れて居たと云うのに、まさか自分自身が既に奪われて居る身だとは思ってもみなかった。
思ってもみなかった事であるだけにその衝撃は強烈で、切なさも侘しさも甚大なものなのだ。

「あ、佐助」
「!!!!」

何故こんな時に、と思う場面に限って人は出会ってしまうものである。

「先程叫び声が聞こえた気がしたのですが…大丈夫ですか?」

無邪気な表情で歩み寄る
今の佐助には視線を合わせる事さえ辛く、慌てて顔を背ける。

「お、おう、別に何もねぇよ」
「なら良いのですが…、佐助?」
「な、何だよ」
「何故此方を向いてくれないのですか?」

何故と言われても向けないものは向けない。
何でもねぇよ、とだけ言ってじっと壁際を見詰めるが、それで納得出来る人も居ないだろう。

「何でも無いなら、顔を見せて下さい」
「俺の顔なんか見ても楽しくねぇだろ!良いからもう、あっち行けよ!」
「佐助…」

の声が沈んだものになる。
自分が落ち込み過ぎて配慮が欠けてしまった事に気付くも、今の佐助には上手い言い訳を考える余裕も無い。

「べ、別にお前が嫌いだからあっち行けって言った訳じゃなくて…」

に知られるのは嫌だった。
だがそれで悲しませてしまうのなら、自身の傷を増やした方がましだと覚悟を決めて深く息を吸う。
そして、一息に我が身に起きた悲劇を述べ立てた。

「俺はっ、俺の唇は!もう純血じゃねぇんだよ!ガキの頃に才蔵の野郎に気道確保云々で奪われちまってんだよ!!」
「ええ!?」
「だから見るな!」

それがどう「だから」に繋がるのかには全く解らない所であったが、佐助が荒れて居る理由は大体理解出来る。
自分の知らない内に唇が奪われて居たと云う事が酷く辛いのだろうと考え、ふとある事実を思い出した。

「それなら、私もそうなりますが…」
「ええ!?」

今度は佐助が驚く番だった。

「だ、誰だ!やっぱり幸村か!?幸村に奪われたのかよ畜生!」

だからあんたは注意力が足りないって何度も言っただろ!と怒鳴る佐助は、怒鳴りながらもまた涙目になって居る。

「い、いえ、幸村ではありません」

佐助の剣幕には一歩後ずさり、戸惑いながら答えた。

「父上とです。私が三つの頃らしいのであまり覚えては居ませんが…」

『ちちうえだいすき!』
『はは、そうかそうか』
『うん!だいすきだからねー、ちゅってするの!』
『うむうむ、ちゅっ』

「…と云う流れでしたのだとか」
「なん、だよ、それ……」

自身もも、そんな下らない流れで済ませてしまって居たのかと云う脱力感が佐助を包む。
何時か好いた相手と大切にしようと思って居たものが、あっさり奪われていたとは。

「もう初めての口付けは戻って来ねぇんだぞ…あんたそれで良いのかよ…」

がっくりと崩れ落ちる佐助を、は苦笑しながら助け起こす。

「でも、私は好いた殿方との口付けこそ初めての口付けなのだと思って居ますから」
「だ、誰か居るのか?好きな奴」
「それは…、秘密です」

そう言うの顔は仄かに赤い。
色付いた頬を見詰めて、佐助の中には一つの…思い上がりかも知れないが、嬉しい想像が浮かんだ。
きっと都合良く考えて居るだけだとは思っても、の真意が気になって。

「なら、俺がしたら…怒るか?」

気付けば自分でも何を言って居るのか、と思う言葉を口にして居た。
けれどは、俯きがちに微笑を浮かべ。

「…いいえ」

小さくそう答えた。
佐助はその短い単語を理解するのに暫し時を要し、理解した後には以上に赤い頬になって居た。

「じゃ、じゃあ…」

佐助が手を伸ばせば、はそっと目を閉じる。
息を詰めて近付く、触れ合ったのはたった一瞬。
その一瞬がどんな感じだったかと問われれば答えられない程の刹那でも、胸の内に在るのは照れ臭い迄の幸福だった。

「………」
「…………」

傍から見ればきっと可笑しい程に頬を染めて向き合う二人。
どちらも初めての口付けはした事があると云うのに緊張してしまうのは、やはり籠める想いが特別だからだろう。

「好きな奴とするのがほんとの初めて、か…」

やがて、佐助がぽつりと呟いた。
その顔はもう、落ち込んで居た時のものでは無い。

「はい。私は、そう思います」

が頷けば、一層輝くその表情。

「だよ、な…そうだよな!」

人工呼吸や、幼い日の親子のじゃれあいは仕方の無いものだから。
それとは別に自分の意思で、想いを籠めて交わす口付けが大事なもの。

だから、二人にとっては今日が本当の初めて。







(みんな大変、佐助が!)
(何だ甚八)
(あの子とちゅーしてた!)
(何!?)
(俺も狙っていたのにな。残念だ)
(十蔵、そんな事よりこりゃ幸村が怖いぜぇ?)
(だよな、あれだけちゃんちゃん言ってるのに…)
(猿に取られたとなればへこむであろうな)
(…わ、私のちゃんが…猿に……!?)
(――げっ幸村!!)
(才蔵!猿を呼び出しなさい!灸を据えてやる…!)
(…御意)











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