直感の采配
御柳の正式な養子になり、あちこちへの挨拶や学ぶ事や…暫くは本当に忙しかった。
今日も義父上の計らいがなければ、こんな風に遠出などしていられなかっただろう。
「たまには昔のように二人で遊んで来なさい」
そう言って送り出してくれた義父上には本当に感謝している。
養子の私が忙しいと云う事は、当然嫡子であり妻の立場であるも同じだけ忙しかった訳で。
形式ばった用事ばかりが続いて疲れ顔だったが楽しそうに笑って居る、私にはそれが何よりも嬉しい。
「幸村、あちらに綺麗な湖がありますよ!」
「そんなに急いでは危ないですよ、」
小走りに先を行く彼女を追い掛けて草原を進む。
昔は届かない背中だと思っていた。
盥回しに預けられていたような自分では、一国の姫には決して届かないから。
彼女の無邪気な笑顔に憧れて、相応しい男になろうと必死に出世する事だけを目指して。
我武者羅に進み続けて、漸く手に入れた。
「待って下さい、ちゃん」
今ではこうして、その背中をしっかり抱き締められる。
「ふふ、すみません。つい、昔に戻った気分になって」
腕の中で此方を振り返り笑う。
こんな日をずっとずっと切望して居たから、時々これが夢ではないかと不安になる。
目を閉じてまた開けたら、全て消えてしまっていたらどうしよう、と。
けれど腕の中の温もりは、どんなに視覚を閉ざしても確かに其処にある。
そして瞼を開けば、愛しい笑顔がちゃんと此方を見てくれる。
「でも昔とは違うでしょう?」
の側に居る事、それは昔の私の夢だった。
今は互いの側に居る事、それが二人の夢。
「また片思いに戻ってしまうのは嫌ですよ」
「そうですね、私もまた大切な事を忘れてしまうのは嫌です」
二人で描く夢は、朝が来ても醒める事は無い。
共に守り続けて行くものだから、きっとずっと大丈夫。
「今度忘れられたら、私は悲しみのあまり死んでしまうかも知れません」
「幸村ったら…」
「本気ですよ。貴女の居ない世界なんて、味気無くて耐えられない」
彼女と離れて居る間、私の世界にあった唯一の光は月だった。
闇を照らす薄明かり、それでさえ眩しくて戸惑っていた。
汚れた自分がこの光を捕まえておくには閉じ込めてでも…無理に奪ってでも壊してでも繋ぎ止めるしか無い。
そう思ってわざと冷たく接してもみたけれど。
「幸村、私は自分の意思がある限り貴方を忘れたりしません。でも、もし病気や事故で忘れてしまうような事があったら」
彼女は昔の私を信じて嫌わないで居てくれた。
「その時はこうして抱き締めて下さい。そうしたら必ず思い出します。此処が、私の一番大好きな場所だから」
「ちゃん……」
太陽の下笑う彼女は、その陽だまりのような温かさで私の胸の闇を払ってくれた。
月でさえ眩しく遠く感じて居た私が、太陽を仰げる日が来るなんて。
今私の持つ明るさも安らぎも幸せも、全て彼女が信じてくれたから得られたもの。
もしあの時彼女が私を冷酷な人間だと拒絶していたら…それでも諦められない私は、どんな手を使ってでも手に入れようと策を弄しただろう。
そんな風にして手に入れた所で、今見せてくれるような笑顔は絶対に手に入らないのに。
「だから、そんなに不安そうな顔をしないで下さい。折角のお休みなのですから、幸村にはもっと笑っていて欲しいのです」
「そんなに深刻な顔になっていましたか?」
「はい、それはもう。難しい事を考えている時の、軍師様の表情になっていましたよ」
「うーん、長年の癖でしょうか…悪い癖ですね」
想いが通じ合った日、もう詰まらない策に頼るのはやめにしようと思った。
そんな事ばかりしていたら、大事な事を忘れてしまいそうだから。
「悪い癖、とは思いませんが…考え事をしている顔も好きですよ」
「それは嬉しいですね。でも、気付いたのです」
「気付いた?」
彼女を好きになったのは、あれこれ考えてからじゃない。
軍略も知らぬ幼い頃に直感めいた恋をした。
あの頃は自然と仲良く出来たのに、再会した時は中々歩み寄れなかった。
それはきっと、余計な事を考える癖がついていたからなのだと思う。
頭を使ってする恋など上手く行く筈が無いのだから。
「貴女の事が好きな気持ちに理由は要らないし、理屈を並べる必要も無いと云う事に気付いたのです」
強いて言うならば、がだから好きだ。
何処が好きか、なんて陳腐な問いには答えられない。と云う存在そのもの、全てが愛おしい。
「確かに…そうですね、幸村の事を好きな理由は簡単に説明出来るものではありません」
「でしょう?大切な事には、時折思考など邪魔にしかならない事もあります」
「でも幸村がそんな事を言うなんて、何だか意外です。直感なんて当てにならないと言いそうだと思って居ました」
「以前はそうでしたね。ですが、今では直感ほど信じられるものはありませんよ」
恋した直感、あの向う見ずな想いで下した采配が今の幸せを与えてくれたのだから。
「なら、難しい事は全部抜きにして、今日は思いっ切り遊びましょう」
「そうですね、でも、その前に」
恥ずかしがり屋な彼女は嫌がるかも知れないけれど。
余計な事は考えないと決めたばかりだから、それに免じて今この胸にある直感を伝える事を赦して貰おう。
「口付けをしても、良いですか?」
答えを待たずに塞いだ唇、一瞬驚いて身体を引く。
だけどほら、互いの温もりが馴染む頃には、頬を真っ赤に染めながらも私の想いを受け止めてくれる。
あれこれ考えて口付け出来なければ見られなかった可愛い表情。
これはもう、軍師の看板は今日で降ろす事に決まりだ。
もっと自由に貴女を愛して、もっと沢山不意打ちの可愛さを見せて欲しい。
(ねえちゃん、直感に任せて…この続きをしませんか?)
(それは駄目です!)
(直感が一番良いんですよ?)
(それはもう直感ではなく、その、…本能でしょう!)
(あ、騙されてくれませんか)
(やっぱり幸村は策士ですね…)
了
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