現実逃避的共依存


月に雲が掛かる。
まるで真実を覆い隠すかの様に、蒼白い光を閉じ込めて行く。
辺りに広がるのは闇、先の見えない暗黒の夜。

「父上…!」

幸村を裏切って石田家に与するなど、と抗議した私の声は敢え無く退けられた。

、黙って居なさい」
「………」

解って居る、目の前に西軍の大将が睨みを利かせて居る状況なのだ。
父上には他の選択など出来る筈も無い。
大将直々の勧誘――それは最早脅し。この小国が抗う事など赦されない。
それは解るけれど、何故だろう、この不安な気持ちは。

「幸村……」

彼を裏切る事への後ろめたさだけでは無い。
何か、決して踏み外してはいけなかった一段を踏み外した様な、不気味な感覚。
幸村の軍師としての冷たい表情を目の当たりにした時の様な…恐怖に近い、大変な間違いを犯してしまった焦りが募る。

「幸村、どうか、無事で…」

祈る様に見上げた空は、朧月が頼り無く霞んで居た。




雲の切れ間、脆弱な光に照らされる室内。

「御館様、御柳が石田と組んだ模様です」
「やはりな。……攻めるぞ」

立ち上がり出陣の支度をする。
これは戦、余計な事を考えてはいけない。

「なあ幸村、良いのかよ?」
「…仕方ないでしょう」

そう、仕方が無い。
貴女が私にとって大切な人でも、戦は戦。情など掛けて居られない。

「でも、姫さんが万が一死んじまったりしたら…」
「それは絶対にさせません。お前も、何かあれば身を呈して彼女を守るように」
「そう上手く行くのか?しかもあの姫さんの親と争うなんて、嫌なもんだろ」

姫と云う立場で戦死はしない。敗将の娘として自決の道を選ぶとしても、それは私が赦さない。
そして彼女の国を攻める事に於いては、悪いけれど罪悪感など無い。

「私のものにすると云う意味なら…この戦は、寧ろ好都合ですよ」

甲斐の支配下に置く事になれば、彼女はもう姫ではなくなる。
帰る場所を失った彼女を妻にすれば、私だけのものだ。
いずれ彼女が私の本当の顔を知って嫌ったとしても、帰る場所は何処にも無い。

「そうなのか…?まあ、全力で戦うしかねぇよな」

佐助は何か言いたそうな顔をしながらも、それだけ言って支度をしに姿を消した。
賢明な判断だ。
私の彼女への想いは、誰にも踏み込ませたくないところだから。
誰にも理解などされなくて良い。自分自身でさえ良く解らない。
彼女には隠しておきたい事が沢山ある、けれど愛すれば愛するだけ彼女の事は知りたくなってしまう。
深く知ろうとすれば自身の秘密も曝け出さずには居られなくなるだろうに。

「…誰も傷付かない、なんて。きっと不可能な事だから」

私の胸が不可解な矛盾に捩れるだけなら構わない。
私の秘密を知って貴女が傷付く事だけは避けたい。
いや、本当は、秘密を知った時に貴女が私を嫌う事を避けたいだけ。
結局全ては自分の為に。
幼い日の心は置き去りに、ただ今の貴女を手に入れられれば良い。
その為ならばどんな手を使っても。

「才蔵。御柳城の図面は」
「出来て居ります」
「御苦労。徹底的に追い詰める為には、必要不可欠なものですからね…」

この枯渇した心では誰かを守るなど出来ないのだろう。
誰かを幸せに、など。到底出来ないのだろう。
無邪気だったあの頃のように希望だけを追い掛ける訳にはいかないから。
希望など…所詮何の役にも立たない。寧ろ叶わぬと知った時に辛さが増すだけだ。
物事には対価は居る。この甲斐で地位を掴む為にも必至だった。
貴女を手に入れる為の対価。それはきっと…
本当の意味での幸せ、それを失う事なのだろう。


――夜更け。
御柳城の攻略は笑える程簡単に済んだ。

「…ふん、戦と云う気すらせんな」
「このような小国、御館様にはさぞ詰まらぬもので御座いましょう」
「城主達はどうした」
「連れ出すようにと高坂が命じておきました」

私は実際に微笑を浮かべて指揮と執ったのだ。
貴女と対面する直前までは、冷酷な軍師の顔で居た。

「美しい姫ですね。御館様の側室に…」

貴方と目が合う。私の表情は悲し気なものに変わる。
軍師の顔と幼馴染の顔、果たしてどちらが仮面なのだろう?
解らない。
自分の事は解らないくせに、この先の展開だけはよく解る。
信玄様は側室の案を受け入れるに違いない。
そして私に褒美を取らすと仰るだろう。
私の姫への想いを知って居るから。そして、私はそれを堪え忠義を尽くして戦ったから。
臣下をとても大切になさる信玄様ならば、それは当たり前の行動。
それを知って動いた私は本当に忠義者なのだろうか…解らない。
計算で全てが読めるから、余計に解らなくなるのだろうか。

「…幸村、お前に褒美をやる」

そうしてやはり全ては計算通りに。
何もかもが私の掌の上で動いたとは、誰も知らない事。
純粋な貴女は勿論、主である信玄様も、私より立派な軍師である高坂殿も。
私の手足となって動く十勇士達も、誰一人真実を知らない。
私だけが知る真実。それは、私が生涯口を閉ざし続ければ誰も真実だと解らぬ事。
偽りを通し尽くせばそれが皆の真実になる。
その時、私の真実は偽りになり偽りが真実になる…入れ替わり交錯する虚実は、畢竟、混沌としたものなのかも知れない。
そんな風に考えて自分を楽にしようと、逃げて居るだけだとも何処かで気付きながら。

「…では、御館様の側室を下さい」

深く頭を下げた私の前に、真実は跪き用意された答えを差し出した。


――薄灯りの燈る仄暗い室内。
頼りない炎に照らされる貴女の白い指先をそっと握り締める。

ちゃん…怖い思いをさせて、すみません」

さも私には不本意な戦であったかのように目を伏せて。
僅かに震えるその細い手を大切に想う事は本当の気持ち。
この一瞬を永遠と思いたい程に愛して居るのも本当なのに。

「幸村の所為ではありません」

思った通りの返答に僅かに歪む口元は悪人そのもの。
矛盾する裏腹な想いに胸が痛む。
もう過去には戻れない、私は清らかな人間になどなれない。けれど今の自分を捨てる事は怖い。
ただ貴女の手を強く握った儘時を止めて、未来を得られない関係でもこの儘で居たい。
醜い本心を隠した儘貴女に触れる事を、どうか赦して下さい。
貴女と離れて居る間に私は変わってしまった。
貴女を幸せにする為ではなく、私の幸せの為だけに貴女を利用する。
穢れた真実など知らないで居て、ただ笑って居てくれれば、それで良いから。

「幸村が無事で、本当に良かった…」
ちゃん…、」

嘘を隠す様に見上げた空は、複雑な心境を映した様に暗雲が蟠って居た。




雲の切れ間、脆弱な光に照らされる室内。

ちゃん…、有難う」


向かい合う幸村の表情は、穏やかなようでいて、劇しい感情を隠して居るように見えた。
私は幸村のように賢く無いから、それは気の所為だったのかも知れないけれど。
彼を裏切ってしまった事への後ろめたさからだろうか?

 何か、決して踏み外してはいけなかった一段を踏み外した様な、不気味な感覚。

石田家の同盟の話に乗った、あの瞬間感じた…途方も無い誤りを犯したような焦り。

「愛して居ます、ちゃん」

微笑んで居る、けれど、瞳の奥に昏い翳りを見た気がして。

 何処かで、何かを、間違えた?

また、あの恐怖に似た感覚が背筋を上がる。

「ずっと、仲良しで居ましょうね…」

でも…きっと、気の所為。
幸村は優しい人だもの。
私を愛してくれているのだもの。
そう、私は幸せ。これが私の望んだ幸せ、これが真実…間違って居る筈が、無い。

「はい、幸村…」


月に雲が掛かる。
まるで真実を覆い隠すかの様に、蒼白い光を閉じ込めて行く。
抱き締められた腕の中、目を閉じれば。
瞼の裏に広がるのは闇。微かな月明かりさえも届かぬ、心地好い程に閉ざされた暗黒の世界。












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