我儘乱用権
「!は何処だ!」
ばん、と乱暴に襖を開いた先には。
「――っき、」
今まさに着替え中の、妻の姿があった。
「きゃああああああ!!!!」
「うおっ!?」
ばたん、乱暴に襖を閉めた。
よく考えてみれば妻の着替えだ、やましい事もなければ恥ずかしい事も無い。
ただ悲鳴に驚いて思わず慌てて閉めてしまった。
このまま逃げるのも恰好がつかないが、今更また中に入るのも間が悪い。
どうしたものかと室の前で立ち尽くして居ると、と侍女の会話が聞こえて来た。
「はあ…びっくりしました。信玄様に悲鳴を上げるなんて、失礼な事を…」
「今の状況では仕方ありません、誰でも驚きますよ」
「信玄様には何時も驚かされてばかりな気がします」
「言動に予測が付けられませんからね」
男が女同士の会話をこそこそと聞くなどみっともない。
そんな事は百も承知している。
だが俺はどうにも、自分の居ない所で噂をされるのが落ち着かない性質だ。
を信じて居ない訳では無いが、わざわざ本人の居ない所で語るからには陰口では無いかと邪推してしまう癖がついている。
「本当に…信玄様は、初めてお会いした頃から自由気儘な御方でした」
「奔放な御方ですからね。様が奥方になられて良かったですよ、他の姫君なら今頃夫婦喧嘩が絶えなかった事でしょう」
「確かに気の強い方なら喧嘩になりそうですね」
「様も、あまり溜め込まれてはいけませんよ。御困りな事ははっきり仰られるのも大事です」
話の流れが不穏な方を向いて来た。
に不満に思われそうな事…残念ながらあり過ぎてどれと言えない程にある。
自分が我儘な事はそれなりに解っているし、彼女を振り回している自覚もある。
けれどそれは俺なりに信じた道を行く為に必要な事であったり、時にはただ彼女をからかいたいだけの事もあるが…、
大抵の事はきちんと理由があってしている事だ。
打算や騙し合いの下らない思惑を挟みたくないから、思った通りに動いているとそうなってしまう。
自分に素直に生きようとしたらそうなるものでは無いだろうか。
「有難う御座います。でも、私は困っては居ませんよ」
「様は優しい御方ですね」
「いえ、そんな。ただ、信玄様はあの奔放なところが魅力ですから」
はやはり良い女だ。
自分でも我儘だと認識しているような部分を、魅力と言ってくれるとは思わなかった。
つい頬が緩んでしまう、其処へ。
「お館様ーーっ!!」
「!!!」
何と間の悪い男だろう。
「ぎゃあっ」
飛び付いて来た高坂に反射的に蹴りを入れてしまった。
「お、お館様…痛いですうぅ」
「やかましい!お前の所為で立ち聞きがバレたら…」
言い終わる前に、がらりと開く襖。
「信玄様、何をなさっておいでです?」
「今、立ち聞きと仰いましたか?」
侍女の冷たい目と、高坂の興味津津な目と。
その奥には、既に着替えを終え呆気に取られている表情のが見える。
「――俺はっ、に用があって待って居たのだ!来い、!」
「え、え?信玄様?」
「信玄様、逃げるおつもりですか!」
「ああっお館様、どちらへっ」
二人の声は振り切って、の手を掴み逃げるように自室へと引き上げた。
後で何か言われるかも知れないが、この場は逃げるしかない。
逃げた方が勝ち。勝てば負けない。勝ちこそ全て。
頭の中で妙な言い訳を並べながら引き上げた室内で、漸くほっと溜息を吐いた。
「あの、信玄様…?」
そうだ。
安心している場合では無かった。
まだには何の言い訳もしていない。
「そ、そのだな、用があって会いに行ったら着替え中だったので待って居たのだがな」
不味い。自分でもどうかと思う程嘘臭い言い訳だ。
そもそも、用とは何ですかと言われたら終いだ。
最初から特別な用など何も無かった。
ただ何時もの癖で、目に見える所に居ないとどうも不安になって探して居ただけで…
「そうですか…?それで、ご用とは」
やはり訊かれてしまった。
下手な嘘も思い当たらない。こうなってはもう、開き直るしかない。
「特別な用など無い。会いたかったから探して居ただけだ」
「え…?」
「悪いか!妻に会いたいのに理由が要るか!」
照れ隠しに怒鳴ると云うのは如何なものか、などとは自分でも思って居る。
だがまさか、妻に陰口でも言われて居ないかと不安になって立ち聞きを…などとは言えたものでは無い。
甲斐の虎とも呼ばれるこの俺が、そんな女々しい事を口に出来るか。
「信玄様…」
「何だ!」
何を言われるか、と身構えた俺に。
「私は信玄様の、その奔放なところが好きです」
「そっ、そんな事、」
さっき聞いた!と言い掛けて慌てて口を閉じる。
そんな事を言っては立ち聞きを認める事になってしまう。
「時々戸惑う事もありますが、信玄様がその時々の一番素直に下さる御気持ちなのですから。私には嬉しいことです」
まあ、どちらにしろにはばれているのだろうが。
俺が立ち聞きをしていた事も、何故そうしたかも。
だからこそ何も咎めずに、ただ俺の望む言葉だけをくれる。
「…ふん、お前が嫌がっても、俺は自分が信じた道なら誰にも邪魔はさせんがな」
「信玄様の選ばれた道ならば、私は何処までも御供致しますよ」
着替え中に押し掛けて、立ち聞きして、連れ出して。
挙句勝手に怒鳴った俺に、彼女は文句の一つも言わず笑った。
「ああ。俺は甘ったれた詰まらん夢は嫌いだが、自分でこうと決めた夢なら実現する為の努力は怠らない」
多少強引なところは認めるが、それは俺が信じた道に行く為に必要だから。
けれど決めた事はやり遂げる。約束は守るし、嘘はつかない。
「だから、何があっても付いて来い」
我儘かも知れないな。
でもそんな俺が好き、と言ってくれるなら、これからも支えて居て欲しい。
「はい、信玄様。信玄様の我儘でしたら、幾らでも叶えて差し上げます」
満面の笑みで頷く。
そんなに俺を甘やかすとどうなるか解ってるか?
俺は信用した人間にしか、本音の我儘など言わない。
お前がそうまで言ってくれると、もっともっとお前にだけ甘えるようになるぞ。
「そうか…なら、覚悟しておけよ?」
この甲斐から天下を取るまで、我儘三昧の日々になる事を赦して貰おう。
了
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