穏やかな日常など、乱世に長くは続かない。
率先して穏やかさを破ったのは三成様だった。
泡沫 六
「やはり俺だけこうして安穏と暮らす訳にはいかない」
「今お戻りになるのは危険過ぎます」
「危険など承知で行かねばならんのだ。後の事はお前に任せた」
ある朝私にそう告げると、三成様は素早く身支度をして出て行ってしまった。
「これは…困ったわね」
三成様が戻ったとなれば、あの雪姫のこと、きっと追い掛けて行ってしまうに違いない。
それ自体の問題は軽いと言えば軽い。ただ、私が共に行けば迷惑になるだろう。それが悩み所だった。
開戦はもう間も無く。
恐らく今後あの二人が静かな時を得られる事は無いだろう。
私が動けば監視も動く。監視が居ては、二人が何か語り合えば筒抜けになる。
けれど長く離れて居る訳にも行かない。三成様の情報が途絶えぬ様、私も後から追えとそのうち指示があるだろう。
「きゃ、」
「ああ…すまない」
考えながら歩いて居ると、小次郎様とぶつかった。
ひどく疲れた顔をして居る。
「昨夜も出掛けて居られたのですか?」
「まあな。やっとこれから寝るところだ」
「そうですか…、おやすみなさいませ」
此処最近、小次郎様は雪姫の為情報収集に忙しい。
重い足取りで奥へ向かう背中を見送って、私の中に一つの案が浮かんだ。
雪姫はじきに三成様の不在に気付く。
必死になった姫は小次郎様も置いて走るだろう。
小次郎様が起きる頃には夜、姫を追うにも闇の中は危険になる。
そうなれば私達は翌朝出発する事になり、あの二人は束の間の自由が得られると云う計算だ。
私は小次郎様に状況を説明する為に一旦残ったと言えば表向きの言い訳になるし、監視には小次郎様を見張る名目になる。
小次郎様を利用してしまう事になるけれど、今はこれが一番の良策だろう。
「…けれど結局」
其処迄考えて、自嘲の笑みが零れた。
偽善も良いところだ。私が奪う幸せを私がお膳立てしてどうするのか。
このまま東軍が勝てば、姫と小次郎様はともかく三成様の命は確実に助からない。
解って居て私は皆の幸せを願い、願いながらも自身の命が惜しくて任務を遂行する。
何と云う、矛盾。
『籠の小鳥には、空を見せちゃいけないんだ』
半蔵様の言葉が蘇る。
私にとって空は恋した小次郎様、その小次郎様が恋した雪姫、その雪姫が恋した三成様。
沢山の人の幸せなど、一人の頼りない両手ではとても守り切れない。
結局、私は空に届かず堕ちる小鳥でしか無いのか。
「…でも私は、堕ちるその時迄羽撃いてみせる」
無駄な足掻きでも、所詮は偽善でも、守れるものなら全て守りたい。
この羽が縫い止められようとも、引き千切ってでも空を目指そう。
見上げた空は青く高く、夏が近い事を報せて居た。
案の定慌てて城を飛び出した雪姫には、「小次郎様には私が言い訳して置きます」と言って見送った。
この言い訳の役割と云うのは中々大変なもので、私は先程からずっと小次郎様のお小言を受けて居る。
「局も何故止めなかった!三成さんが狙われて居る今、近くに居るだけで雪も狙われる可能性はあると云うのに…!」
「三成様なら、何があっても雪様の事は守って下さいます」
「雪が大人しく守られて居るか!三成さんに何かあれば考えもせずに飛び出すぞ。実際今日もそうだろうが」
小次郎様の剣幕に侍女は怯えて下がってしまい、私は苦笑しながらこうしてただ対面して居た。
「大体、俺は護衛なんだぞ。主に逃げられる護衛なんてとんでもない失態だ、どうしてくれる」
どうしてくれる、とは言うが、私は姫の出奔を黙って居ただけであって故意に引き離した訳では無い。
それなら私が間に入らずとも小次郎様は気付かずに居たのでは…と思うけれど、今はとてもそんな事を言える空気では無かった。
「万が一雪に何かあったら…」
きつく袴を握る手は微かに震えて居る。
本当に雪姫が心配で堪らないのだろう。
あの道中敵の気配は無かったし、忍が多少うろついていたとして、無関係の人間にわざわざ襲い掛かる様な輩は居ない。
雪姫の安全は絶対と言って良い程確実だったけれど、私がそれを告げる訳にはいかなかった。
「時は焦っても過ぎぬもの。明日の朝迄の辛抱です、小次郎様」
何も知らない振りを通すには、これが精一杯の言葉。
確実と言えぬなら、下手な気休めの言葉など掛けるだけ不安にさせてしまう。
「俺も解っては居る、解っては居るが……すまない、局を責める事じゃ無いな」
「良いのです。誰かに思いを吐き出せば楽になれる時もありましょう」
「それじゃ吐き出される方は辛いだろう」
「私なら構いません。それで小次郎様が楽になれるのでしたら、一晩中でもお聞き致します」
震えるその手をそっと握ると、季節はもう暖かい頃だと云うのに冷え切って居た。
「局はやはり…不思議な人だな」
小次郎様は力無く微笑んで、私の手を握り返す。
それ以上は何も言わずに。
ただぎゅっと、祈る様に互いの手を握って。
こんな私でも、祈るだけなら許されるだろう。
どうか、小次郎様の身心が傷付く事無く戦が終わりますように。
この任務が終われば二度と会う事も無い人だけれど、何処かで幸せに暮らしてくれたらそれで良い。それだけで良いからと、心から祈った。
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