泡沫 五
「様、あの…今宜しいでしょうか?」
「まあ、雪様。どうぞ」
「はい…」
不安気な面持ちで、雪姫は私の傍らに座った。
「あの、様は…戦についてどう思われますか?」
雪姫はあれから長らく文を書いて居なかった。
西軍を選ぶ気持ちは揺るがなくとも、それをすぐに伝える事は躊躇われたのだろう。
けれど決断すべき時は近い。悩んだ末私を頼ったと云うところか。
「そうですね…、私は三成様を信じて居ります」
妻としての模範回答。
「私も三成様を信じて居ます。でも、何故か…酷く不安にもなるのです」
「雪様…」
本当は、色々と掛けたい言葉があった。
けれど私には監視が居る。
本来、私が密偵の役目を忘れ三成様に本気にならない様にとの監視ではあるけれど、気になる事があれば全て報告されてしまうだろう。
「不安なお気持ちは解りますが、人に流される決断はいけません。ご自分で納得出来るまでお考え下さいませ」
「様、」
突き放す言い方に、雪姫は悲しい顔をした。
「雪、此処に居たのか。三成さんが呼んでたぞ」
「小次郎…。解りました、すぐ行きます」
そのまま、逃げる様に出て行ってしまう。
慰める事も励ます事も出来ない儘その背中を見送って居ると、小次郎様がぼそりと呟いた。
「…意外だな」
「何がでしょう」
目を合わせる気になれず、ぼんやりと正面を見詰めた儘返す。
「三成さんの味方に付けと勧めるかと思った」
「…国の事は、また別ですから」
「甘やかすだけじゃないんだな。見直したぞ」
今迄より親しげな口調で微笑まれ、嬉しい反面泣きそうになった。
私は結局、良い人にも悪い人にもなりきれない。
望まれた様な良い人なら、半端な厳しさなど見せない方が良い。
こうして裏工作に手を染める悪い人なら、半端な馴れ合いなどしてはいけないと云うのに。
「小次郎様は…本当に三成様に似てらっしゃる」
簡単には信用してくれない。けれどその思考は実にさっぱりとして居て、信用が置けずとも無闇に悪く言いはしないし、良いと思ったところは素直に誉める。
そんな性格だからこそ、私は余計に悲しくなってしまう。
「俺と三成さんが?」
「はい。お二人共…狡い方、です」
こんな言い方ではまた気分を害してしまうかも知れないけれど、それ以外の表現が浮かばなかった。
三成様も小次郎様も、初めは冷たい態度で悪い印象しか与えない人。
なのに時を重ねるうちに、然り気無い気遣いや優しさを見せるから、いつの間にか夢中にさせられてしまう。
その良く似た二人を、私と雪姫では別々に好きになったと云うのは…人の心とはやはり難解なものだと云う事か。
「狡い、か…。そうかもな」
小次郎様は気を悪くするでも無く、薄い微笑でそう言った。
もしかしたら、私の想いに気付いたのかも知れない。
それでいて何も言わないのは、やはり狡いからだろう。
仕事でも本心でも雪姫の安全の為に動く彼は、私を受け入れる事も拒絶する事も今の段階では出来ない。それによって私が姫に優しくなくなっては困るからだ。
「ええ、本当に」
私も笑って返した。
彼を責める事など出来ないし、そういうところも含めて好きになったのだと気付いたから。
小次郎様の三成様と違うところは、この少し翳りを抱いた目だ。
他人を利用するしかなければする。けれど罪悪感を拭えないで居る目。
「局も狡いと思うけどな」
「…そうですね」
短い会話はそれで終わった。
春の穏やかな空は薄青く澄んで、ただじっと私達の行く末を見守って居た。
その後福島氏、加藤氏の裏切りによって城を追われてから、雪姫は益々判断をしかねて居る様だった。
「あの二人が裏切るとは…!」
「三成様…」
逃げ延びて来たこの城内で、三成様はずっと落ち込んで居る。雪姫はその側にただ控える毎日だった。
「局はこんな所に居て良いのか」
私と言えば、そんな状態の三成様に近付く事は憚られ、城の片隅でぼんやりと過ごして居た。
「私などがお側に居ても、三成様の支えにはなれません。今は雪様にお任せ致します」
そして同じ様に手持ち無沙汰な小次郎様もまた、私の横で過ごす事が多かった。
「夫婦だと云うのにな」
「それは、形式上は。三成様にとって真の理解者は雪様だけでしょう」
「局の方が三成さんの事は解って居るんじゃないか?」
「夫婦と云うのは、どちらか一方だけが知って居ても意味が無いのですよ」
「…成程な。確かに局の事は良く解らない」
小次郎様はふっと笑い、綺麗に手入れされた中庭へ目を向ける。
その横顔に瞬時息を詰め、私も庭へと視線を移した。
こういう一本気な方には愛されない女だと解って居る。
福島氏や加藤氏の様に秋波に弱い人ならばともかく、生真面目そのものな人にとっては、女の武器など嫌われる理由にこそなれ好かれはしない。
彼等が好むのは――そう、雪姫の様な純真無垢で健気な娘。
私では駄目なのだと、強く自分に言い聞かせた。
「そういえば、局は加藤清正と面識があるのか?」
「何故です?」
仕事が絡む話だと、気持ちを据え直して訪ねる。
「逃げる時、局だけは無事に連れて来いと指示が聞こえてな」
あの馬鹿、と舌打ちが洩れそうになった。
加藤氏は福島氏程遊び馴れして居ない様で、私にかなり本気で入れ上げて居るのは知って居た。
けれどあの状況で名を出せば不味い事くらい、普通は察しがつくものだろう。
「三成様のお付き合いで、何度か顔を合わせは致しましたが…そんな風に思われて居たとは気付きもしませんでした」
「へえ。人の機微に敏感な局が」
「ええ……」
これは疑われて居るのだろうか。
私が疑われるのはこの際構わない。ただこの不穏な会話に、三つの気配が構えたのを感じた。
小次郎様程の剣客ならば狙われたとて大事には至らないかも知れないが、複数の忍が相手ではかなり不利になるだろう。
「本当は、彼方の怪しい動きにも気付いてたんじゃ――」
「小次郎様」
要らぬ怪我をさせる事だけは避けたくて、私はわざとらしさを承知で遮った。
「女は殿方の事に口出しをしないものです。殿方もまた、女の秘密に口出しをなさるのは無粋と云うものですよ」
殺気を出す程では無く、瞳に強く「これ以上構うな」と滲ませて。
「……ああ、そうだな。悪かった」
「解って頂ければ良いのです」
引き下がってくれた事に心底安堵して、静かな庭に視線を戻す。
監視の警戒も解けた様だった。
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