そうして考えない様にして居た答えは、数日後にはっきりと解ってしまった。





泡沫 四





局様、福島様がお見えです」

侍女の言葉に胸がざわつく。今迄は平気だったと云うのに。
どうしたら良いのか解らない、ただどうにか現実から目を背けたくて。

「申し訳無いのですが、今日は…」

断りの言葉を述べようとした口は、背筋に突き刺さる視線を受けて取り下げざるを得ない。

「………」
局様?」
「いえ。すぐに参りますと伝えて下さい」
「はい」

福島氏と会う。それだけの事が、この日は恐怖に近い感情だった。
近い、と云うより本当に恐怖して居たのかも知れない。

認めたくないものを認める事になると感じて居た。
認めてしまえば、私の未来にあるのは闇だけだとも。

「お待たせ致しました」
「おお、殿」
「石田は一時程で戻ります。暫しごゆるりとなさって下さいませ」

頭を下げる。畳の縁をじっと見詰めて、何も考えない様にする。

「三成殿の留守中ばかり御訪ねしてしまうとは、儂も間が悪い」
「…寧ろ好都合、でしょう?」
「はは、本音を言えばその通りですな」

伸ばされる手を振り払いたい気持ちはあった。

「悪い方、ですね」

けれど本当に振り払う程愚かでは無い。

殿こそ、悪い奥方だ」

そんな事をしようものなら、この身に突き刺さるのは視線では無く刃になる。

あたら命を散らす気になどなれない私は、

「正則様が罪な御方だからいけないのです」

妖艶な微笑を浮かべ、好色な顔の男に撓垂れ掛かる。

「前々から三成殿の頑固振りには呆れて居たが…奥方にも愛想を尽かされるとは哀れなものよ」
「ええ、本当に詰まらない方です」
「あれが天下を取るなど、笑い話にもならぬであろうな」
「そうですね。ですから…」

帯に手が掛かるのを、貼り付けた微笑で見て居た。
以前ならば何の感慨も無く済ませた作業に、気が遠くなる程の絶望を感じる。

もう誤魔化せない、解ってしまった、この感情の持つ意味も、この感情の行き着く先も。

「西軍など早く滅ぼして下さいませ」

極上の笑みに涙が滲んだ事は気付かれなかっただろう。

殿の頼みならば」

重なる肌をこれ程嫌悪した事は無い。

今なら答えられる。
小次郎様に結紐を送った理由は、雪姫を応援するのと同じ事。
「好きだから、幸せになって欲しい」
小次郎様が雪姫を好いて居るのなら、その心を抑え付けて後悔せぬ様にと。
私の様にはならないで欲しいから。



「………っ」

自室に戻るなり強烈な嘔吐感に見舞われた。
けれど実際吐き出すものなど何も無く、代わりに目から涙が溢れた。

「これが、」

これが恋と云うものなのか。ならば恋とは限り無い苦痛でしか無い。若い娘が噂する様な、甘く清らかなものなどでは決して無い。
私の様な人間が抱くには、余りに愚かで儚い夢でしか無いと云うのに。

、泣いてるの?」

気遣う様で居てからかう声がして、涙を振り払う。

「いいえ」

知らない内に其処に在った、ただ押し寄せる貴方への想い。
どれだけ愚かで、胸が哀しみに満ち、息さえ苦しいものになろうとも、これが私の初恋。
ならば咲ける限りは咲かせよう。
私と同じで還る場所を持たない心を、早くに散らせては可哀想だから。
隠して隠して、密かに咲かせるだけなら許されるでしょう?

「少し疲れただけです、半蔵様」

精一杯凛とした眼差しで振り返る。
格の違いで、こんな演技など見抜かれるに違いないけれど。

「ふうん?」

やはり勘繰る視線を向けられる。

「…此方は順調です。秀秋様の籠絡は如何ですか」
「もう決まった様なもんかな。こっちは光秀様も直々に進めてらっしゃるから簡単だよ」
「そうですか。…早くお戻りにならなくて宜しいのですか」
「冷たいなぁ。の親代わり兼師匠だってのに」
「視線が増えて鬱陶しいのです」

私の監視と半蔵様の監視。
併せて六人の視線は心底疎ましい。

「あはは、確かにね。でもちょっと休憩してくくらいは許してよ。任務帰りで疲れてんだから」
「…誰かに見られたらどうするのですか」
「そんなの見付かる前に気配で解るって。それに、そういう時こそあのくっつき虫の連中を利用すれば良いじゃん」
「相変わらず奔放な御意見ですね…」

半蔵様は強い。
忍である事を誇りも嘆きもせずに暗躍し続ける姿は、幾つになっても超えられる気がしないものだった。
五つ程しか離れて居ないと云うのに、本当に父の様だと思わされる。
孤児の私が拾われたあの日も、この力強い笑顔に安心して付いて行こうと決めた。

「確かに奔放かも知れないけど、自由では無いからなぁ」

忍道に自由など無い。
それを笑って言える様にはやはりなれそうも無く、黙って目を伏せた。

。籠の小鳥には、空を見せちゃいけないんだ」
「え?」

何の話か解らず顔を上げると、僅かに悲し気な笑顔があった。
私が正式に徳川の忍となると決まった日のような、優しく辛い笑顔。

「小鳥は籠から逃げる手段を持たない。なのに空の青さを知ったら、焦がれて死んでしまうからね」

やはり半蔵様は何もかもお見通しだ。
忍が恋などしても、叶わずに苦しむだけだと、そう言いたいのだろう。

「…逃げられずともその小鳥は、最後迄青の向こうを願って歌うでしょう」
「飼い主の望まない歌を歌う小鳥の翼は折られる。自らは動かず、小鳥の側で飼われて居た鷹を使って」
「鷹は小鳥を確実に狙いますか?」
「勿論。それが飼い主に与えられた命ならば、鷹は躊躇わずに小鳥に爪を立てるよ」
「それはそれで…小鳥は構わないでしょうね」

私が離反したとして、処断を担うのが半蔵様なら悪く無い。
私の育ての親、忍術の全てを教えてくれた師匠、私の密かな恋を唯一知った人なのだから。

「鷹は複雑だと思うよ?…あ、じゃあまたね!」

室に近付く気配を察して、半蔵様は瞬く間に姿を消した。
同時に監視の目も三人分が消える。
私の監視も一緒に居なくなれば良いのに、と思いながら、その気配の人が訪れるのを待った。