泡沫 七
その後無事に二人の元へ到着し、和やかな空気が流れたのも束の間。
屋敷の中はぴりぴりとした空気が満ちて居た。
もう間も無くなのだ、開戦が。
「小次郎、これを…」
「ああ」
そして遂に、雪姫が動いた。
きっちりと封のされた書簡が小次郎様の手に渡る。
その内容は、昨夜覗いて確認済みだった。
御柳家は西軍へ。
三成様と共に戦って欲しい、と。
その決断は解り切って居た。
解って居たのに心の準備が出来て居なかった様で、今更酷く狼狽える。
雪姫の一言で国が動く。その後押しをしたのは私。西軍は負ける。その後押しをしたのも私。このまま放って置けば、姫の国も民も姫自身も……
「局様、どちらへ?」
「少し…出掛けて参ります、すぐに戻りますから!」
「局様!?」
気付けば走り出して居た。
幸い気付いた侍女は気の弱い娘一人だけ、特に噂にもならないだろう。
監視は丁度報告に抜けて居る。
これが正しいとは言えないかも知れない。
それでも良く解らない衝動に押されて、私は必死に小次郎様の後を追った。
「これを頼む」
「はいよ!」
息を切らせて駆けた先では、小次郎様が飛脚に文を渡すところだった。
飛脚の向きを見、少し遠回りをして先へ着くよう急ぐ。
此処で小次郎様と接触しては事が円滑に運ばない。
「すみません!」
「ん?どうした姉さん」
「あの、今日…文をお願いした者ですが、その…書き忘れを思い出して。ちょっと書き足しても宜しいでしょうか?」
「ああ、良いよ!どれか解るかい?」
「はい…」
紙束の中、見覚えのある一つを取って。
携帯用の筆筒を取り出し、素早く文字を書き直す。
御柳家は、東軍へ。
これで良い。
雪姫が望まなくとも、どう思おうと。
「有難う…もう済みました」
「そうかい、じゃあな!」
丁寧に封をし直し、飛脚に託して暫しその場に立ち尽くす。
「これだけなら…大丈夫」
御柳家が東軍に付く事は、徳川にとって悪い事では無い。
姫の為にとは気付かれないだろう。
任務の範囲内で出来る事をする、それだけなら私は忍としてまだやって行ける。
「局。こんな所に何の用だ?」
「………!」
訳の解らない衝動と、良い事をして居るのか悪い事をして居るのか解らない焦りとから、背後の気配に全く気付けなかった。
「小次郎様…、少し、気分転換に。散歩です」
何時から見られて居たのか。
動揺を隠して笑って見せる。
「散歩と云うか、思い切り走って居なかったか。見掛けてすぐ追ったが、途中で見失った程だぞ」
「最近運動不足でしたので。小次郎様こそどうなされたのです?」
見失ったと云う言葉に安堵し、普段の調子で聞き返す事が出来た。
「俺は所用でな。局も用が無いなら、一緒に帰るか。今は城下町と言えど危険だからな」
「ええ、そう致します」
ざわ、と初夏の強い風が吹く。
戦が始まる頃は夏の盛だろう。
日の入りが遅くなる…それだけ闇に紛れての行動は辛くなる。
半蔵様は大丈夫だろうか、と心配になって、そんな自分が嫌になった。
「局?走り過ぎて疲れたか?」
「いいえ、まだまだ平気です」
「無理はするなよ」
「はい」
私は何がしたいのだろう。
否、忍に何を望むも無い。これは任務、命じられた事だけを淡々とこなせば良いだけだ。
味方の心配など要らない。増して――無関係な人間の心配など。
「…………」
今迄幾度も、こうして浮かんだ疑問を打ち消して来たけれど。
今回はそれでは上手く行かないと感じて居た。
忍とて人並みの人情は持って居る。
それを押し遣るのは、掟の厳しさ。誰しも己の命には変えられない。
でも、今の私は。
「このまま戦など…起きなければ良いのにな」
悲しい顔で風を浴びるこの人に笑顔を贈る事が出来るなら、何をしても良いと思ってしまう。
「ええ…、平和な世が続いたなら、どんなに良いでしょう…」
誰も悲しまない未来が得られたら。
口にしたその言葉が実現しない事は、解って居たけれど。
「小早川秀秋が東軍に寝返った」
そして無情にも戦は始まり。
「そんな…!」
「あの秀秋様が…」
皆に驚きを運んだ報告から数日、城の中はまた新たな驚きに満ちて居た。
「信長さんが討たれた」
運命を定めるべき日は刻一刻と近付く。
「光秀殿の離反に、信長殿が討たれたとあってはもう…」
「光秀も何があったんだろうな。信長さんにしても、こんなに簡単に討たれるとは…」
小次郎様の溜息混じりの言葉が胸に痛い。
何があったか。半蔵様が動いたのだ。
秀秋様には、光秀様と共に。
あの二人に迫られて寝返らない人など、居ない方がおかしい。
光秀様は本当に容赦をしない人だ。それは一度対峙しただけで感じ取れる。
信長様には、恐らく半蔵様一人で。
正面から大軍で攻め、隙を突いて半蔵様が狙ったに違いない。
半蔵様の暗殺の腕は、狙われた時点で死が確定する程のもの。
「とにかく、此処を逃げないとな。暫く待って居れば俺が探して来よう」
「すまない、小次郎」
今のこの会話も勿論、光秀様には伝わって行く。
この先逃げる場所が決まっても、其処もまた筒抜けだ。
私が側に居る、それだけで居場所など狼煙を焚くより明らかで。
「様…、三成様は大丈夫ですよね…?」
「雪様、こういう時こそ女がしっかりせねばなりません。私達で三成様をお支えするのです」
「はい…でも、もしもと思うと…父上までも……」
「大丈夫、ですから。ね?」
不安に震える背を摩ってやる。
そう、父上の事なら心配は要らない。
今頃は書簡に頼んだ通り、東軍で戦って居る筈だから。
ただ、三成様は…保証が無い。
「ともかく小次郎様を待ちましょう。今何かを考えても、どうにもなりません」
今にも泣き出しそうな雪姫を見ているのが辛くて、後は侍女に任せ自室へ引き籠る。
「……疲れ、た」
このところ監視の目は甘くなって居た。
福島氏加藤氏の離反、秀秋様の寝返りにより一先ず此方の事は落ち着いたと思って居るのだろう。
嘘で固めた日常を続けるのは疲れる事だけれど、監視が無い時間が増えただけでも随分と気持ちは楽だった。
「今日はまた、暑いわね…」
だらりと縁側に寝そべり、整った庭に頭を向ける。
と、ささ、と微かな音がして、一匹の蜉蝣が近くを飛んで行った。
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